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存在しない町があることについて

ドイツ西部に「ビーレフェルト」という存在しない町がある。いや、あるらしい。気になる。こういうの個人的にはすごく好き。

存在しない町がある、という時点で論理矛盾だしマイノング的なのだけど。

「ビーレフェルト」という存在しない町がある件については、結構有名な話なので、知ってるよという人も少なくないんだろうけど、こういう話ってふつうは一時的に盛り上がって廃れていくのに、いまだに現役なところがすごい。

日本だと、鳥取と島根が入れ替わってるのにしばらく誰も気づかなかったみたいなインターネットジョークがあるけど(両県を揶揄する意味合いはまったくないです)、そういう次元じゃない。

ビーレフェルトの場合は本当に平熱レベルで「存在しない町」として扱われてる。まあ僕も行ったことがないひとりなので偉そうなことは言えないのだけど。

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どうやらドイツではこの町出身者だという人に出会ったら「信じられない」というリアクションをするルールまであるらしい。

メルケル首相ですら、ビーレフェルトで国際会議をしてもいいという話のあとで「もし実在するなら」と付け加えているし、この夏にはとうとうビーレフェルト市が「この街が存在しないことを証明できた人に、110万ドル(約1億1000万円)を出そう」と公式に発表までした。

ここまで来たら壮大なジョークという感じではなくなってる。ビーレフェルトの実在派と非実在派がわりと本気で、存在しない証明というか非証明を争ってるのだ。

もうひとつ個人的に言えば、そういう論争は白黒着いてほしくない。ぼそっとそう言いたくなる。

「存在しない町がある」という状態でずっと漂っていてほしい。ダメですか?

ネット上の壮大なネタでもいいし、3次元の世界で本当に「存在しない町」になってるのでもいい。そのことで誰かの生命や生活が脅かされるようなものでなければ。

ビーレフェルトに限らず、存在がはっきりしないものが「ある」という状態が好きだし、気持ちが和む。存在しない町があることに想いを巡らせるだけで、なんだか落ち着くのだ。変なのはわかってます。

これって「本当になにもないところだよ」と言われたら逆に、そのなにもなさを味わいに出掛けたくなるのにも似てるんだろうな。そういうのって共感性は限りなく低いんだけど。

「存在するけどしない町」についての小説も昔書いたけど、どこにも発表してない。わかりやすい話でもないから何かエンタメ性でも持たせないと読まれないんだろうけど、時間がない。

なので、いまのところはビーレフェルトみたいに自分の中で「存在しないかたちで存在」してるのだ。町も小説も。