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ガワだけ学んでも
「あんなふうになりたいんです」「あーいうのつくりたい」
何かにつけてわかりやすいモデルなのか、サンプルなのかが話に出てくることが多い。うん。たしかに「あんなの」を指したほうがわかりやすくていいんだけど。
イメージの共有という点では、もちろん必要。なんだけど、何か違和感を感じることもあるのはなんでだろう。
思うのは「あんなふう」「あんなの」の話が、聞いてると結構、ガワだけを指してる気がするからだ。
ガワはWEBの世界でも頻出する用語だけど、フロントエンド(ユーザー側)を意識したつくりこみの意味だったり、とりあえずの見た目、外側のデザインとか仕掛けのことも含んでたりする。
WEBの世界に限らず(書籍もそういう面がある!)、中身も大事なんだけど、そこはなかなか伝わらないから「ガワでなんとかして」という話になりがちだ。
まあ、そりゃ仕方ないよなと思うこともある。これだけ爆速でいろんなものが行き交い、ヒトもモノも油断してたら瞬で消えていくのだ。中身にたどり着く前に「ガワで目に留めてもらおうよ」という話にもなるわ。
そこから文脈が繋がって、モノづくりとか、働き方、生き方、人のコミュニケーションの次元でも「ガワでなんとかすればいいよ」になったりもする。
で、ややこしいのはそれが全部悪手とも言えなかったりすること。相手に合わせたガワで自分を見せたほうが、いろいろすっ飛ばしてうまくいくこともあるし、面倒なことを回避できたりもする。
極論すればSNSだって、その人の「ガワ」のひとつでしかないんだよな。でもそのSNSのガワのおかげで、ふつうだったら知ることもないし、知る方法もない人とかその人のクリエイティブな何か、気になるものを見れたり、つながれたりする。
もし「ガワ」なんてものがなくて、ぜんぶいちいちその人とゼロから向き合っていかないと知ることもできなかったら、きっと世界は今より縮んでしまうだろう。
だからって、いろんな人や事象の「ガワ」だけ学習して「あんなふうになりたいんです」「あーいうのつくりたい」と言ってても、あんなふうにもなれないし、あーいうのもつくれない。
「ガワ」がわかりやすく目につくからこそ、余計に「ガワ」と中身のつくり方のギャップをどうするかだ。
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そんなときに、ふと思い浮かぶのは、なぜかジェーン・バーキンとエルメスのバッグ『バーキン』だったりする。理由はよくわからない。
べつに僕はエルメスの『バーキン』に縁も用もないんだけど、なんとなくエルメスの『バーキン』は「ガワ」と「中身」がどっちもくっついてるイメージがある。
昔、某番組にジェーン・バーキンがゲストで出演したとき、彼女が自分でプレゼントした『バーキン』をひったくって、踏んづけ、バッグの上で跳びはねてぐっちゃぐちゃにして、さらに自分のバッグからもいろんなモノを詰め込んで新品とは思えない姿に型崩れさせて「はい、これでOK。これがあなたのバッグよ」と手渡したのを覚えている。
もちろんTVショーなのだから演出もあるんだろうけど、そこを超えてた。
多くの人が『バーキン』の「ガワ」に目を奪われるけど、『バーキン』の本物の価値はそこじゃないんだ。ガワだけ見てるあいだは、『バーキン』を「自分のバッグ」にすることはできない。
モノづくりとか、働き方、生き方、人とのコミュニケーション。どれも「自分のもの」にするには、きれいな「ガワ」を一度、自分で踏んづけ、その上で跳びはね、ぐちゃぐちゃにしたほうがいいんだろう。
「a quoi bon ?(それでどうなるってんだ?)」と笑えるぐらいの生き様でね。