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「誰か」を「何か」に当てはめて考えるのやめません?
ふとしたときに「ペルソナ」や「世代論」が出て来て違和感を感じることがある。仕事上で「ターゲット」云々の話になったときにペルソナや世代論は顔を出しがちだ。
25歳~35歳ぐらいの未婚女性で、○○に感度が高く、ファッションはスカーチョやスカンツを穿くことが多く、ナチュラル系のブランドが好みで休日は~みたいな(たとえばの例です)ペルソナやミレニアル世代やZ世代の価値観や行動はといったざっくりしたくくり。
もちろん、何かを考える下地としてはペルソナも世代論も有用なときもあるのだけど、それありきで具体的に仕事を構築していくとなると「待てよ」と思う。
さすがに昔のように特定のジェンダーや世代でペルソナをひとくくりにして、何かを伝えようみたいなのは少なくなったけど、それでも違和感が拭えないのはなぜなんだろうか。
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デジタルマーケティング的には、より細分化したペルソナでカスタマージャーニーを描いてというのも珍しくなくなってるけど、結局それも「誰か」を「何か」に当てはめてる点では昔と変わらない。
わかった。「誰か」を「何か」に当てはめる時点で違和感があるのだ。たとえ、どれだけ詳しくトラッキングして細分化したものであったとしても。
ちょっと昔になるけどメディア研究者のJohanna Blakley氏のTEDでの「ソーシャルメディアとジェンダーの終焉」というプレゼンテーションで「(既存の)メディアは私たちの生活やジェンダーについて真実を歪めて伝えてきた」と述べていた。
嘘をついていたというのではなく、コンテンツ(情報や広告も含む)をつくりマネタイズするために限定的なカテゴリーに人々を当てはめ(F1層なんてまさにそうだ)、まるでそこに当てはまる人がみんなそうであるかのように、あるいはそうであらねばおかしいかのように誘導してきたのだという。
そこにソーシャルメディアが台頭してきたことで、そんなざっくりなカテゴライズで生活してる人なんていないことが「見える」ようになった。あるカテゴリーではすごく伝統的価値観を大事にしてる人だけど、ある部分(個人的に好きなもの)では斬新な価値観を持ってたり行動してる人だってふつうにいる。そんなのはどこにも当てはまらない。
Johanna Blakley氏の表現を引用すると
オンライン上で人々が集まる様子を見ると、人々は年齢や性別、収入で集まっている訳ではありません。自分たちが強い関心を持ち好きなものに集まっているのです。共通の趣味や価値観は人間にとって統計学上の分類よりも遥かに強力な求心力であると言えるでしょう。私は皆さんが何歳かどうかよりも『吸血キラー聖少女バフィー』が好きかどうかが知りたいのです。その方が皆さんの特徴を知る手がかりになります
ということだ。『吸血キラー聖少女バフィー』が懐かしい人もいるかもしれないけど。
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意外かもしれないけど、地方に移住すると余計にそうだよなと思う。既存のカテゴリーやペルソナ、世代論がどうでもいいぐらい当てはまらないのだ。
もしかしたら、地域に人を呼ぶ系のマーケティングでもやもやしてる要因のひとつも「誰か」を「何か」に当てはめて動かそうとしてるからかもしれない。
昔のカテゴリやペルソナでは「移住で第二の人生」とか「地方に魅力を感じるミレニアル世代」みたいなお決まりのくくりをされてたけど、現実はほんといろいろだ。
長くなるので書かないけど、うちの地域でもほんとにいろんな人がいろんな理由や想いで移り住んでごっちゃになってる。
ただ共通するのは、ここに「好きな空気や価値」があるから、感じるからというところ。それ以外は性別も世代も何をしてる、してきたもまるで関係ない。
めっちゃ多様性だなと思うし、それが健全なんだろうなとも思うのだ。