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隣に死が足りてない

こういうふうに書くと怒られが発生するかもしれないんだけど。

ここのところ「成功」とか「成長」って何だろうとずっと考えていてnoteにも書いてる。いや、ここのところじゃない。意識下ではずっと常に考えてる。

「成功」も「成長」も生きるのに必要なものではある。プリミティブな要素のひとつとして。

一応、何がどうなってそうなったのかわからないけど、人間も動植物もほとんどは「誕生」→「成長」するようにプログラムされてる。もっと大きく言えばデザインされてる。

だから生きてく中で「成長(成功)」を目指すのは何も間違ってない。自然なこと。

なのだけど、大事なことが抜けてる気がするんだ。何が抜けてるかっていうと、わりとみんな「どうやって成長するか、成長できるか」を意識しがちで、「衰退」とか、もっと言えば「死」を考えないところ。

そんなの考えてたらもったいないよ。成長できる時期に衰退とか死なんて関係ないじゃん。そんなふうに思う。そうだよね。

でも、もっと俯瞰してみると、あるいは大きな時間軸でみると「成長」だけするっていうのは本来あり得ないんじゃないか。

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ずっと成長し続けるもの、ずっと新しいままのもの。そういうのもおもしろいしあっていいと思う。でも、同時になんだかそれって変だなとも思う。落ち着きどころがないというか。いつまで経っても馴染めないというか。

もちろん、そういうのも個人差があるのでずっと新しいままのほうが落ち着くし馴染む人もいるんだろう。

僕個人でいえば、どんなものでもずっと新しいまま、ずっと大きくなり続ける、増え続けるのはちょっと落ち着かない。

どこかで「いい感じに馴染んだ変化」があったほうが落ち着く。

そういう気持ちや感覚ってってどこからくるんだろうか。

分からないけど、もしかしたら人間(広い意味での生き物すべて)には、どこかいい感じのところで成長や新しさを落ち着かせる制御が働いてるんじゃないか。そういう状態も心地良いと感じるような何か。

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デザインの世界に「バイオフィリックデザイン」という概念がある。
元もとはバイオフィリア(biophilia)仮説と呼ばれる、人間や動物は自然を根源的に好む性質を持ってるのではないかという学説から派生したもの。

バイオは文字通り、生命とか自然を指して、フィリアは積極的に愛好する意味合いがある。

つまり「自然を偏愛する」何かが人間や動物の中にこっそりとあるのだ。

乾いた都会の中にも、一応、なんとなく「自然」を配置しないと落ち着かない(それがビルの谷間の小さな植栽やオフィスの植物であっても)のは、そういうことなのかもしれない。

最近だと、表参道ヒルズのスタバなんかも「バイオフィリックデザイン」されてるみたいだ。

で、自然は「成長だけ」することってない。そのサイクルは長短あるけれど、どれも誕生→成長→衰退→死がちゃんとある。

「バイオフィリックデザイン」では、あえて、そうした自然の「衰退」「死」もデザインに取り入れようと考えることもあるのが特徴的だ。実際に枯れた樹木の風合い、風雨に晒された質感なんかもデザインに組み入れて家具などのプロダクトをつくってる会社なんかもある。

もちろんデザインには趣味嗜好もあるけど、衰退とか死を遠ざけて「真っさらな世界」だけにするよりも、適度に「誕生→成長→衰退→死」がちゃんと隣り合って気配を感じられるほうが豊かな感じはする。

そんなのの何がどう豊かなんだって、まだうまく言えないけど、いつかちゃんと言えるようになれればいいなと思う。