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自然の中でこそ「人間の集中力」は高まるんじゃないか論
この数日間、仲間と山に篭ってました。京都の京北(けいほく)というエリアにある芦見谷。京都市内からバスに1時間揺られ、最寄りのバス停から谷沿いの道を歩いたら、さらに1時間かかる京都の秘境。
といっても現代人なので車で向かったのですがw
それでもふだんは谷沿いに住むごく僅かな人と、林業関係者、たまに釣り人が入り込むくらいで、ほんとに人の気配がしない場所なんですよ。
じつは去年の夏から、この芦見谷をクリエイティブな空間に整備するプロジェクトに加わってまして。
2020年には、この場所でアート&演劇祭をやろうという壮大な計画があり、今は有志が年数回各地から集まって山小屋に泊まりながら環境整備してるところ。
もちろん自分たちだけの力では不可能で、山小屋の主であるプロジェクト代表Sさんのご両親とその山仲間の方々には毎回多方面のサポートをいただいています。
閉じている「感覚を開く」ということ
で、このプロジェクトは山の中に小さな野外フェス会場をつくる具体的な作業もしつつ、同時に参加する人の「感覚を開いていく」という裏テーマも含んでるのが特徴。
なにしろ、この21世紀に電気・水道・ガス・ネットのインフラがなく、テレビや携帯の電波すら届かないんですよ! 行政上は京都市内なのに、ほぼ完全自給自足生活。
と書くと孤高の仙人が住む異世界っぽいですが、ぜんぜんそんなことはなく。むしろ、いろんな意味で豊かな時間が流れてるかも。
まあでも、一切の「情報」から切り離されるオフグリッド生活って逆に貴重じゃないですか。
余計なノイズが入ってこないので、すごく思考がシンプルになるんですよね。生きるという人間の根源的な活動にナチュラルに集中できる。
普段、集中するっていうと、いろんなプレッシャーの中で「意識的にやる」ものが多いですが、ここでは気が付いたら自然に集中して時間が経ってる。
しかも疲弊感がなくて、野外ステージづくりでも賄い料理づくりでもいい感じに作業できて、つくったものにも満足できるんです。なんだろう。リラックスしながら集中できるっていう理想的な状態かも。
情報に触れすぎると「楽しさ」が薄まってしまう
お茶やコーヒーを飲むのも、沢の水(簡易的な自作水道から流れてくるやつ)をレンガの竃で沸かすところから。お風呂もマニア垂涎の五右衛門風呂。
効率的な薪の燃やし方もネットにも出てくるけど、そんなの実際にはそれぞれの竃の形状や薪の状態、天候によっても左右されるので正解はないですよ。自分の感覚を開いて、そのときそのときのベストを探っていくしかない。
でも、その感覚がなんか楽しいんですよね。リアル。
ふだん情報にずっと触れてると、リアルには何も体得してないのに「わかった感じ」になってますが、よく考えたらあんまり楽しくはない。生きてる楽しさが薄まっていくというか。
キャンプ場やBBQでもリアルな感覚を開く楽しさは感じられると思うのですが、数時間のイベント的なのと違って、わりと「生活」に近い感じでやるのは、またちょっと粒度が違う気がします。そこから先の自分に何が紐づけられていくかという意味でも。
自然の中で頭を使う仕事をする時代が来てる?
自然の中に入るというのは日常から切り離されたリフレッシュ的な文脈で語られることも多いですが、実は自分の「日常レベル」での集中力も高められる。
てことは、自然の中で遊ぶだけじゃなく頭を使う仕事をするのもありなのかもしれませんよね。ネットは使えないかもしれないけど……
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