猫耳とダイヤモンド
ときどき、誰かの言葉に射貫かれて動けなくなることがある。
これはまったくもって自分の問題なので、その言葉を発した人には何の責任もない。というか、どんな言葉だって誰かを動かそうとしても動かないこともあるし、動かすつもりはないのに動かしてしまうことだってある。
まあ、つまり言葉は面倒くさい。
なんだろう、ずっと自分の中を掘って「見つかんねぇな」と思ってたことが、不意に誰かの口やつぶやきから出たとき。それがぐうの音も出ない真理や本質だったとき。
僕はその場にひざから崩れ落ちる。年に何度もないけれど、リアル猫耳を着けたおじさんと新幹線で隣になる回数よりは多い。
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ああ、その言葉だ。ずっと探していた言葉が想定外のところで見つかったことに少し動揺しながらも、カタルシスと悔しさがないまぜになったなんとも言えない感情を味わう。
悔しいというのが自分でもよくわからない。きっと自分で掘り当てたかったんだろう。だけど、同時にずっと探してたものが見つかって腹落ちした気持ちのよさも押し寄せて来て泣く。心の中で泣く。世界はそれを愛と呼ばない。
そっと涙をふきながら、僕はその言葉がなぜ自分からは出てこなかったのかを考える。
わかっている。自分がつまらない人間なのに自分の中から言葉を掘りだそうとしていたからだ。あるいは相手の中から掘り出そうとしてた。それはまだ少し可能性があるかもしれないけれど、誰かの中に入ってダイヤモンドのような言葉を採掘するなんて本当は相当難易度が高い。
そもそもダイヤモンドは稀少で硬いのだ。そんなものが簡単に掘りだせるとしたら何かの間違いだろう。
自分の中からも出てくるものではないし、誰かから掘り出すのも難しい。としたらどうしたらいい?
わからない。わからないけど「言葉」を探そうとするのをやめればいいんだろう。
言葉より大事なものはたくさんある。そこをちゃんと見ることだし、大切にすること。それがどんなちっぽけでありふれたものであっても。
言葉はそのうしろで、そっとそんな様子を見てるんだと思う。