ヨーグルトの冷めない距離
思わず戸惑ったのを覚えてる。彼女からもらった「ヨーグルトの冷めない距離がいい」という言葉。
スープのとか、味噌汁のとかだったらわかる。けどヨーグルトの冷めない距離ってなんだろう。そもそもヨーグルトって温かいものだっけ?
あのときも僕は頭の中にクエスチョンマークを浮かべていた。
「どした?」と、彼女が僕の顔をのぞきこむ。
ずるい、と僕はいつも思う。
女の子が何か質問しながら少し意地悪な感じで顔をのぞきこむ仕草に勝てるのは、お腹が空いたときに飼い主の顔を見上げて足元を八の字を描きながら絡んでくる猫ぐらいしかいない。
あれはたしか――。
僕が具合が悪くて彼女の用事に付き合う約束をキャンセルした日だ。その頃、僕らはお互いの距離をまだうまく取れていなかった。
季節は12月で、1年の疲労がまとめてやってきたみたいに病院に行く元気もなく、小さなソファの上で毛布にくるまって朦朧としていたら、不意に部屋のインターホンが鳴った。
宅配便か何かの勧誘ぐらいしか僕の部屋のインターホンを鳴らす人はいない。いろいろ面倒くさいので携帯も切っていた。
悪いけど無理。僕は誰にかがわからないけど謝って無視した。というより、本当に自分の部屋のインターホンかどうかも怪しかった。それぐらい本当に意識が遠く揺れていたのだ。
何度かインターホンが鳴ったような気もする。しばらくすると静けさが戻り、僕は真空地帯に放り出されたような気分になる。
またしばらくして部屋の前に人の気配がした。でも今度はインターホンは鳴らず、カサカサした音がして静かになった。
普通の状態ならすべてが気になるけれど、どうでもいいと思うぐらいには朦朧度が増していたのだと思う。
そのあとの記憶がないので、そのまま眠ってしまったのだろう。気がついたら部屋は真っ暗だった。
***
いまがどこで、どこがいまなのか。記憶をなくすってこういう感じなのかと大げさなことをぼんやり思いながら、部屋の電気も点けず瞼を開けたり開いたりした。
夜の街の音がハーゲンダッツのアイスクリームをすくうみたいに、街から剥がされて聞こえて来る。そうだ。誰かインターホンを鳴らしてたんだ。
僕は戻ってきた記憶の端っこをつかまえて、何十時間ぶりかに部屋のドアを開けてみた。表のポストに何か入ってるかもしれない。
ふと、ドアノブに白っぽいものがぶら下がっているのがぼんやり目についた。メガネを掛けてなかったのですぐに何かが認識できない。夜の視力はファンタジーなフィルターをつけたレベルにふわふわしている。
顔を近づけてみるとコンビニの袋。袋の中にはスポーツドリンクとヨーグルト。手を突っ込んでみると、小さなメモが入っていた。
《ヨーグルト温めるといいよ》
特徴のある彼女の字だった。ヨーグルトを温める概念がなかったので、これは何かのおまじない的なものなのだろうか。それでも、おまじないならおまじないで受け取ろうと思った。
どれぐらい温めたらいいかわからなかったのでネットで調べてみると、ヨーグルトメーカーの公式サイトで「500Wの電子レンジで50秒」というのが出てきてその通りにボウルに移して温めてみた。
思ったよりもおいしい。なんだろう、いつもの冷えたヨーグルトより甘い気がする。ほんのりと温かいヨーグルトの向こうに彼女の顔がちらっと映った。
やさしく温まったヨーグルトのおかげなのだろうか。嘘みたいに朦朧としていたものが消え去り、次の日僕は普通に仕事に出掛けられた。
ようやくまともに思考が働く頭で、僕は彼女にお礼のメールをした。
――ヨーグルトの冷めない距離がいいんだけど。
彼女からの返事だった。それまで、何かあっても「大丈夫」「○○だって忙しいんだから自分でやるよ」と、そういうつもりはないけど僕のほうが彼女と距離を取りすぎていた。
それ以来、僕はヨーグルトをボウルに移し、律儀に500Wで50秒間温めて食べるようになった。夏でも冬でも。いろんなことがあっても、その習慣は変わらなかった。
変わったのは、一緒にふたり分のヨーグルトを温めるようになったこと。
少しだけ距離を縮めたり、温めるといいものはいっぱいあるのだ。ヨーグルトみたいに僕らの日常に。
すごくベタベタ甘いわけでもなく、でもすぐ近くでお互いの気配を大切に感じられる。
彼女が朝の支度をする音が聞こえてくる。
そんなほんのりとした温かさを感じながら、きょうも僕はふたり分のヨーグルトを温める。
だからヨーグルトの冷めない距離でいよう。これからもずっと、きっと。