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「嬉しい」は「楽しい」の上位互換だった

最近、嬉しいことがいくつかあった。楽しいじゃなく嬉しい。

こんなこと書くと読みたくなくなる人もいる。基本、人は他人の困難に反応しても他人の良きことにあまり興味はない。なぜか、そういう設定をされてしまってる。

まあ、そういうものだというのもわかった上での話。

ひとつは何年かぶりに、演劇仲間がお見舞いのお酒やら和ケーキやら果物や胡麻油(すごく旨い!)なんかを携えて信州まで訪ねてきてくれたこと。

僕自身はべつに演劇界に身を置いてるわけでも、舞台に立ってるわけでもない。なんだけど表現者やクリエイティブという曖昧で大きなくくりの中で、一緒にいろいろやらせてもらってきた。

演劇とライター/作家の共通点のひとつが「言葉」を扱うこと。扱うというか「生きもの」として使う。

舞台の上か紙やデジタルの媒体の上かの違いはあるけど、どっちも観客や読み手が存在して「言葉」が立ち上がるというか生きてくるのは同じ。

基本的に誰も観る者がいない、誰も読む者がいないところで台詞や文章の「言葉」は生きて立ち上がることはないから。

いま「言葉が立ち上がる」って言ったけど、ずっとそのことは意識し続けている。

もちろん「立ち上がる」は修辞表現なのだけど、僕自身、一時期自分の書いた言葉が立ち上がってないんじゃないか病になってた。

なんだろう。言葉がどんなに力を込めても、立体的になるように工夫しても立ち上がってこない。平板で触れた瞬間にさらさら崩れていくような掴みどころのなさ。

どうしたものかと思いながら、とある舞台のプロデュースに関わっていて、その打ち上げみたいなところで同級生の演出家のワークショップの話を聞いて、やってみたくなったのだ。

そこでの話はまた別の話になるし、この文脈ではそんなに興味ないと思うから詳しくは書かない。

けど半年間、声優の卵やプロの俳優さんたちに混じって、なぜか、ものかきの自分が「言葉」を立ち上がらせ肉体と感情が言葉に宿るトレーニングをいろんなメソッドの実践をしながらやってみた。

で、ひとつだけだけど掴めたことがあって、また言葉が立ち上がるようになったのだ。

もうひとつのうれしいことは、嶋津さんと久しぶりに対話できたこと。

嶋津さんはダイアログ・デザイナーとして毎晩、ツイッターのSpacesで『対話パーティー』というプログラムを開催されていて、そこのスピーカーとして誘っていただいた。

じつは僕と嶋津さんは自然発生的に生まれた「ことばのアトリエ」という風のようなユニットをつくっている。


今年の5月に嶋津さんから、今度はSpacesの「ことばのアトリエ」で喋りましょうと連絡もらったとき、僕は不調の坂を下っていた。今から考えれば緊急入院の直前だったのだ。

そのときは、たぶん少ししたらまた体調戻るからそのときにって約束したのだけど、まさかのOverステージⅣのがんが発覚して、一気に時間が飛び去っていった。

で、ようやく夏を超えて秋深まるこの季節に対話が実現したのだ。

「身体の声」というテーマで、本当にお互いの身体の声でいろんな話ができたのがすごく嬉しかった。

そう、「楽しい」じゃなく「嬉しい」。

「身体の声」ってなんやねんの人もいると思うけど、端的に言えば「頭がつくり出す言葉じゃなく、身体が感じてる言葉」。

もちろん発話されたり記述される言葉ではないから、取り上げるのが難しいっちゃ難しい。でも、中には嶋津さんのように「身体の声」「身体の言葉」で通じあえる人もいる。

だからなのか、対話の冒頭から嶋津さんは「いやー嬉しいな」って何度も言ってくれてたのが僕もわかるし同じだった。

なんだろう。「楽しい」は誰ともシェアしない自分だけの時間でもつくれる。けど「嬉しい」には相手がいる。誰かと一緒にいられて嬉しい。何かを分かち合えて嬉しい。いろいろだ。物理的距離も関係なく。

演劇仲間も同じ。台詞より身体がどう感じてどう動こうとしてるのか、プライマリーな自分をベースにして、そこに生きた言葉を載せる。

だから、一緒に話していて身体が嬉しい気持ちになる。楽しいのはもちろんだけど、それ以上に身体が喜んでるのがわかるんだ。

自分ががんになったから余計になのかもしれない。自分の楽しいより、家族も含めた誰かとの「嬉しい」にすごくエネルギーをもらってる。

もしかしたら、僕みたいな状況じゃなくても誰でも「楽しい」の上位互換「嬉しい」を自分の身体で感じると、もっといろんなことが良き動き、エモーションになっていくんじゃないかと思ったりしてる、今日この頃のヤギです。