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好きのかたち

先日、小中からの付き合いで、週1で一緒にゲームをしてくれる男子2人と遊びに出かけた。遊びに行くと言っても遠くに出向いたのではなく、地元のボウリングとカラオケへ、ボカロ曲が流れる車に乗せられ向かうだけ。何が特別という訳ではないが、幸せだった。ゲームで共に遊ぶことしかなかったため、小学生以来7年ぶりに見た私服、初めて見るご飯を食べるところ、初めて聞く曲の好み、すべてが新鮮で愛おしかった。俺は彼らが好きだ。大好きだ。もう1回言いたい。

大好き!超大好き!
いっつも遊んでくれてありがとう!

…仲が良くても異性(生物学的には女性なので一応異性ということにしておく)に対して好きと言うのは気が引けるんじゃないかって?
それはそう。本人に対しては言えない。
でも、俺の中では『俺の好き』を胸張って言えるようになった。その経緯を長くはなるが話していきたい。

昔から、好きな人というものが移り変わりやすい人間だった。小学生の頃には、同時に2人いた、なんてこともあった。「何それ、意味わかんない!変なやつ!」、「変わるの早くない?ただの男好きじゃん。」とはよく言われたものだ。「ウチ(小学生までの一人称はウチ)って変なのかな…。」と落ち込むことも多々。
実際、俺は常に男子のそばにいるタイプの人間だった。そばにいたのは、単に落ち着いたからだ。女子の間でキャッキャと華やかにされる服の話やアイドルの話、テレビの話に着いていけなかった。多少口悪く、漫画、アニメ、ゲームについて話して、外で鬼ごっこをする男子たちといた方が、俺は楽しかったのだ。このこともあり、男好きと勘違いされていた。小学生の世界からしてみれば、こう思われるのもしょうがない。

中学生になって、初めて彼氏というものができた。1年弱付き合ったのは、初めてにしては長かったのではないだろうか。少なくとも俺の学校ではレアだったぞ。まぁそんなことは置いておいて、この時同級生からのある問いかけに疑問を持った。
「手繋いだりさ…キスとか…しちゃったりした?」ニヤニヤ
俺はそんなことをしたくて付き合ったわけじゃなかった。手を繋ぐとか、ハグはできる関係でいいけど、キスとかそういう行為とかをしたかった訳じゃない。そういう欲がないと、恋人であってはいけないのだろうか?という疑問だった。この時期は社会から外れることへの恐怖が強かったため、「いつかは挑戦してみたいよね〜笑」と誤魔化すことしかできなかった。

結局、手も繋がずハグもしないまま彼が引っ越すことになり、遠距離にお互い自信が持てず別れたあと、別の人と付き合う機会があった。が、相手から半ば強制的(しかも口、ふざけるな。)にキスをされた時に酷い嫌悪感があった。「俺はこんなことがしたい訳じゃない。」と、押しのけて逃走。その後しばらく連絡は取らなくなり、結局別れた。
まだこの頃は、世間一般と同じ恋人を欲していると感じていた。信じていた、が正しいかもしれない。恋人像が世間と違うことに気づいたのは高校生のときだった。

高校2年生。誰もいない教室で告白というよくあるシチュエーションを実行した。返事は少し特殊だったがここでは割愛、OKということだった。だが、その場でふとこう聞かれた。
「俺と付き合って、どんなことがしたいの?」
俺は、即答できなかった。
え?なんで?って思うでしょ?俺も思った、その場で。
考えに考えて捻り出した言葉が、
「そばにいたい、2人で話したい。」だった。
既にできている事だった。

ここで俺が気づいたことは2つ。
1つは、これまで好きになった人の共通点が、何かしらを抱えていたこと。片親、いじめられっ子、不登校、病弱、友人の自殺。どれか、もしくはいくつかを抱えていた。彼も例外では無い。それをどこからか感じ取り、仲良くしたい、1人にしたくないと思ったのだろう。付き合いたいと思った人に対して感じていたのは、恋愛的な愛ではなく、母性的な愛だった。

もう1つは、2人でいる理由が欲しかったこと。小学生の時に、周りから男好きと、変なやつと呼ばれたことがこびりついて離れなかったのだと思う。中学、高校と思春期真っ只中なら尚更。男女2人きりで話す、帰る、遊ぶ。それを正当化できるのは、『恋人』という関係だという考えに、無意識に辿り着いていたのだ。
自分がQuestioning(クエスチョニング)であると自覚(発覚?)したのは高校1年生。しかし、頭にこびりついた俺を指差す声、見下す目、それらは性自認が女性である間に得たもの。男性と恋人になりたいと思った時には、男女の関係であるという認識を頭が手放してくれなかった。

クエスチョニングとは、生物的な身体に基づく雌雄とは別に、自己のジェンダー(社会的性別)や性同一性、性的指向を探している状態の人々を指す言葉。

Wikipediaから引用


自分の好き、恋人への自覚を理解したあと、相手のわけアリの内容や、この関係性の曖昧さから早々に別れた。だが、自分を教えてくれた彼にはとても感謝している。今でも彼が好きだ。好き。…好き?
まだ、自分の好きの解像度が甘い。この解像度を高めたのは1年後、3年生の時だ。

初めて、女の子を好きになった。背が高くて黒髪マッシュ、ギターが弾けて、勉強と運動がちょっとだけ苦手なかっこかわいい女の子。俺の憧れの姿でもあった。彼女が他の子と話しているとちょっと嫉妬もした。
でも、やっぱりキスとかそういう行為がしたいと思うことはなかった。自分の好きに自信が持てず、結局卒業しても告白はしなかった。
デートには行ったけどね!楽しかったよ!
普通のデート。2人きりで、博物館に行って、サイゼリヤでご飯食べて、フクロウカフェで癒されて、電車に揺られて帰る。満足だった。

…付き合わなくていいじゃん。

そう、この普通のデートで気づいたのは、好きな人と2人でいるのは、恋人じゃなくてもいいってこと。女性と恋人になりたいと思ったから気づけたこと。好きな人と2人で出かけることには、異性だろうが同性だろうが関係ない。それでも、周りの目を気にせずに出かけることが出来たのだ。
俺の恋人の認識が人と違うんじゃなかった。恋人が欲しかったんじゃなかった。
『俺の好き』は、Loveじゃなくて、特大のLikeだったんだ。
2人で話したい、出かけたい、そばにいたい。ただ、ただ、仲良くなりたいだけだった。

…母性愛がはたらいたって言ってる彼らはどうなんだって?
母性愛がはたらいたのは事実だと思う。でも母性愛そのものが「好き」を構成はしていなかった。俺は、彼らがどんな境遇にいるかを知らずに彼らを好きだと思った。仲良くなりたいと思った。無意識で、抱えたものを感じて、1人で抱えたままにはさせたくなかった。俺の「好き」を見出すきっかけには、母性愛が必ず存在していた、と今は解釈?納得?してる。

少し話を戻して、『俺の好き』は特大のLikeって話。
よく、「クラスの誰となら付き合ってもいいって思う?」みたいな話題が恋バナで出てきたが、みんなが2,3人に絞る中、「嫌いじゃなければ誰でもいい。」と思ってた。だってみんな好きなんだもん。Likeなんだもん。『俺の好き』にほぼ当てはまってしまう。

こう考えれば、好きな人がコロコロ変わる、好きな人が同時にいた小学生時代も納得できる。元々好きだと思っていた人と仲良くなれば、次に仲良くなりたい人を好きな人だと解釈する。この2人はいつも一緒にいて、この2人ともと仲良くなりたいと思えば、どちらも好きな人だと解釈する。
ただの仲の良い友達が欲しかった、寂しがりの人間だったのだ。

『俺の好き』を理解した今は、すぐに付き合いたいという思考には至らず、話してみたい、仲良くなりたいという前段階で止まるようになった。友達に対する好きも、抵抗なく抱けるようになった。説明も人にできるようになったため、昔のように変なやつと呼ばれるようなこともなくなった。あの時と違い、周りも成長したというもの1つだとは思うけど。

俺は周りの人間が好き。大好き。超好き!
これからも『俺の好き』を抱えて、胸張って生きていきたい。

まだ言葉にして伝えられないけどね!
いつか、遊んでくれた2人にも伝えられたらいいな。


ここまで読んでいただきありがとうございました。
長文を書くのがとても苦手なので、練習の意も込めて書きました。読みにくいところが沢山あったと思います。すみません🙇‍♀️
下手ではありますが、これからも長文には挑戦していきたいので、暖かい目で読んでいただけると幸いです。
改めて、ここまで読んでいただきありがとうございました!

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