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記憶の継承は五感で記憶?
ここ最近、YouTubeが町田康「口訳 古事記」をオススメしてきた。
その朗読は、力まず、演じることもなく、まるで直接的に何かを受け取ったような感覚になる。
「ただ読む」「ただ聞く」だけで面白いものを朗読したら、どう感じるのか?
そんな好奇心が湧いて、本棚にしまい込んでいた町田康訳『宇治拾遺物語』を手に取った。
実際に朗読してみると、2Dの言葉が3Dへと立ち上がり、左から右へ流れてた時代感覚が歪んでくる感覚といいましょうか。黙読よりも、情景や人物が体の中へと入り込んでくるような感覚を味わえたんですょ。
その後、またYouTubeの町田康の朗読「口訳 古事記」を聞き返す。
そしてふと『古事記』について思いを巡らせる。
古事記はとても記憶力のいい稗田阿礼が暗誦したものを太安万侶が筆録したと伝えられている。稗田阿礼は権力を持った部族のストーリーをNHK番組のファミリーヒストリーのように文書や人に聞いて拾い集めたのだろうか?どのように記憶したのだろうか?
ここからは、個人的な考えだけど、
記憶を継承するというのは、単に何度も繰り返し聞いて暗記することなのだろうか?
どうも、それだけではない気がする。
言われたことを何度も何度も繰り返し聞いてそれを暗誦するのは、円周率を暗記して暗誦する行為のようで、文系人間の太安万侶にその行為をしてもシラけるだけ。
稗田阿礼が記憶した方法は、
「渡す者」と「受け取る者」が同調し変性意識に入った状態で
痛みは「これくらい痛い」と共に感じ、美しさは「これくらい美しい」と、映像のように意識から五感へと伝達されるもので、
そして、その五感から伝わる感覚を言葉にする技術こそ、稗田阿礼が優れていた部分なのではないか?
その五感からの記憶を太安万侶が受け取り、神話というストーリーが出来上がっていったのではないかと思う。
脳ではなく 体で記憶する という技術があったのではないか?
今もあるのか?
そんな想像が膨らんでいく。
YouTube「口訳 古事記」町田康の朗読は、
稗田阿礼が五感からの記憶を暗誦し、太安万侶が筆録したものを、町田康が現代語訳し、自ら朗読するという行為。それは神話を感覚で受け取る継承のようなものだった。
ふと町田康、誕生日いつ?と調べたら、自分と同じ誕生日1/15。
たまたまだけど嬉しい偶然。
そこからは、いつもの癖で星のチャートを開きながらヘリオ・サビアンシンボルで読み解きながら浮かび上がる町田康という結晶がどのような記号や象徴から成り立っているのか?
そんなことを考えながら、彼の文章を読んだり、朗読したり――至福であ~る。