まつりごと。
あまりテレビを見なくなって、インターネットが、社会情勢を知る手段になりつつある。
LGBT法案。
そんなものが社会を賑わせていると知ったのはつい何週か前のこと。
前のnoteにも書いているけれど、権利の主張とか、そういった類の活動に興味がない。(活動を否定しているのではなくて、僕自身の興味がないということです。応援はしています。)
僕は恋心が芽生えてすぐ自分がゲイであると自覚しました。本当に女の子を、好きになった記憶はありません。だからといって、何かいじめられたわけでもなく、何か否定されたわけでもないです。
僕の周りはすごく寛容で、信頼できる人には高校くらいから言っていたし、だからといって何か変わるわけでもありませんでした。そして、それが、すごく幸運であったことも自覚しています。
否定された記憶がないからこそ、他者から肯定されることを、特に求めたことがありません。僕のことを好きであろう人にはいっていて、好きであろう人は、理解してくれて。(もちろん僕には想像できていない、本人の葛藤はあったのかもしれません。)
それとは逆に時間がかかったことがあります。
自分で自分を受け入れること。
これには相当時間がかかりました。
なんで僕は。どうしたらいいのか。そんなことばっかりを考えて部屋に閉じこもっている時期もありました。
普段は明るい自分でいながら、1人の時には自分で自分を受け入れられない、自分で自分を否定する。そんな生活が何年も続いていたように思います。
それを脱出できたのは、25歳の頃。大阪にいって、ゲイの友達ができて。男を好きだということが当たり前の人が周りにいて、あっなんだ僕全然普通じゃん。と急にすっと、なりました。あの頃の友達は、本当によくしてくれて、今でもみんなが大好きです。
差別に苦しんだ人がいることもわかりますし、権利を得たいっていう人の気持ちもわかります。表立って応援できないのは、保身もあるのかもしれないですね。自分は平和に暮らしていて安穏していて。
だって僕がそう思うのは、周りに恵まれていたから。もっと険しく、苦しんでいたら、違ったかもしれません。
そんな僕でも、自分のことを認めてあげるのには、すごく時間がかかったし、すごく苦しかった気もします。みんなすごいなとおもいます。
そう思うと、受け入れる社会は大切なのかもしれません。みんながみんな受け入れてくれる必要なんてないし、差別はなくなることはありません。だけど、受け入れてくれる場所が広かったり、受け入れてくれるってわかるだけで、本人は少し気が楽になるのかもしれません。
たまたま、いい場所に僕がいただけで、こんな居心地のよい場所や環境がいろんなところにあれば、苦しむ人はもう少しだけ減らせるのかもしれませんね。
法律が決まっても、決まらなくても、僕はきっとゲイのままなので。種の保存に反してごめんなさいだけど、子供は成せそうにありません。子供大好きですけどね。
結婚は、別にいいけど、結婚式はしたい。
子供も、もう諦めてるけど、一緒に住みたい。
様々な気持ちや、様々な形があったいいと思うし、傷つく人が減るっていうなら、それには賛成かなと。
なんだかぼんやりな気持ちですけど、田舎のゲイはそんな気持ちです。