それでも人生は美しいー韓国ドラマ「まぶしくて」③ <私的考察2>
この記事では、キャラクターにおける投影について書きたいと思う。
ヘジャのせん妄が作り出した人物、地下室から救い出されたあの不幸なジュナ。
瓜二つの主治医から髪型など現代的な部分は拝借しつつ、亡くなった夫のイジュナが下敷きであることはもちろんなのだけれど、そして実は、その他にも、幾人もの人が投影されているように思えるのです。
あの架空のジュナは、何よりヘジャその人でもあるのだと私は思う。
認知症とは認知が歪む病。
ヘジャは実際、自分の兄と孫とがごちゃまぜになった人物像を作り出していた。
架空ジュナは、優しく穏やかだった現実の夫ジュナより、ほの暗い怒りを抱えてる人物でした。特に祖母の死以降に、それは顕著である。まるで、夫ジュナの死以降のヘジャのようです。
そして現実の出来事とは逆に、せん妄の中では、ある日突然いなくなるのはヘジャであり、そして置き去りにされたのはジュナだった。
深夜屋台で、恋しい気持ちを抱え思い出を反芻しているのもまた、事実とは逆に、ジュナだった。
待つ気持ちが私にはわかると、老ヘジャはジュナに声をかけます。
ヘジャがジュナに言う「約束を守れなくてごめんね」
それは、ジュナの言葉として自分に言ってもらいたかった事と、ヘジャの言葉としてジュナに言ってあげたかった事の、その両方を言っているのだと、私には思えました。
架空ジュナのセリフで、ヘジャの心の声であるものはいくつもあるのだと思う。
例えばジュナの言う
「死にたいと思いながらなんとか耐えてるのに、そこから抜け出せと無責任に言わないで」
これはひとり親として必死に障がいある息子を育てながら生きていたヘジャの心の叫びなのでは。
地下室にずっと囚われたような人物たちがジュナには投影されていて、架空ジュナを作り上げている。そのジュナにしばしば見えかくれする、ヘジャ自身の想いの欠片たち。
自殺したシャネルおばあさんにも、私はヘジャを感じます。おばあさんは、もう一人のヘジャなのだと思います。
息子とのすれ違い。死にたい気持ちを先延ばしにしてきたこと。ジュナへの特別な思い入れ。数え上げればいくつもあります。
テレビで流れた老人の入水自殺ニュース、見捨てられたかのような老人たちとその家族の関係、などの影響をうけて作り上げたヘジャの妄想人物なのでしょうか。病院の203号室に、実際に、雛型となる人物がいたことがあったのかも。
「生まれ変わったらジュナさんのお母さんになる」
認知の病気になっても変わらぬ、寂しい人ジュナへの愛情を感じます。ジュナには息子テサンも投影されていると思われるので、生まれ変われるなら、テサンの母としてやり直したい気持ちもあったのかもしれません。
実際は死ななかった自分と、死を選んだもうひとりの自分。
シャネルおばあさんとジュナが初めて会った時、ベンチに座りながら二人が交わす言葉は、まるでヘジャとヘジャとの会話のように、私には思えました。
ジュナと自分、二人は孤独な者同士なのだとシャネルおばあさんは言う。
このドラマには、家族はいるものの孤独である者たちばかりが出てきます。テサンもジョンウンも老人たちもそうです。
誰もが暗い地下室の住人なのです。
そういった者たちが、ジュナやシャネルおばあさんに投影されて、物語を立体化しているのだと私は思います。
旅に出るジュナをちゃんと見送ってから、おばあさんは死出の旅に出ました。多分これも、ヘジャがそうしたかったことの現れなのかなと思ったりします。最後の最後までずっと一緒にジュナといたかった。ヘジャの悲しくも切実な想いを想像し泣けます。
ドラマを見返せば見返すほど、私は、夫ジュナに対する彼女の深い愛情と出会うのです。
初々しい恋だと思ってみていた物語は、実は夫婦や親子の愛情の物語だった。
こういった二重構造も、ドラマ「まぶしくて」の凄いところです。