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「幻想の図書館」 ミシェル・フーコー

工藤庸子 訳  ミシェル・フーコー文学論集  哲学書房

幻想の図書館


フーコーの「幻想の図書館」を、今日図書館で借りて今日読み切ってしまった(それくらいの文量)。
この本はフロベールの「聖アントワーヌの誘惑」の幻想が、ロマン派のような自分の内部から湧き出るもの重視ではなくて、綿密に描かれた重層的作品であることを証明するためのフーコーの論文と、それから訳者工藤庸子の解説というより論文が半々の割合になっている。

まずはフーコーの方から。

 美術館という存在と、そこに展示された作品があらたに身につける存在のありよう、相互に結ばれるやり方とを、明らかにするために、画布が描かれた。それとちょうど同じころ、『誘惑』は、文学作品としてはじめて、書物が山と積まれるところ、それらの書物の知が緩慢に、植物がはびこるようにじわじわと成長してゆくところ、あの緑色がかった制度を考慮に入れた。
(p23)


想定されているのはマネ(「オランピア」や「草上の昼食」)とフロベール、美術館と図書館。ここで言っているのは単にメタテクストということではなくて(それならセルバンテスやラブレーなど枚挙にいとまがない)、美術館もしくは図書館という存在を前提として形成されている作品ということ。

 図書館は、開かれ、目録に整理され、ばらばらに切りはなされ、くり返され、結びつけられて、あらたな空間となる。
(p52)


「聖アントワーヌの誘惑」の「元ネタ」はこれまでにフロベールが集め読んできた様々な文献そのものによっているものも多いという。いってみればフロベールは作者ではなく編者なのかもしれない。いろいろな幻想が次から次へと現れる直線上の進行は

「垂直方向に広がる内的組織の表面につき出た稜線の部分にすぎない」
(p50)


フーコーはこの論文の冒頭でアントワーヌと「感情教育」のフレデリックは双子のような存在である、と書き始めているが、論文の末尾は同じく双子のような存在「ブヴァールとペキュシェ」に言及している。

 彼らは筆耕(コピー)をやるのである。だがいったいなにをコピーするのだろう? 書物を、彼らの書物を、あらゆる書物を、そしておそらくはこの書物。つまり『ブヴァールとペキュシェ』というこの書物を。
(p62)

 聖アントワーヌによって開かれた書物、そこからあらゆる誘惑が飛び立った書物を、二人のお人好しは果てしなく延長するだろう。妄想を追わず、貪欲を知らず、罪を犯さず、欲望もいだかずに。
(p63)


現代とは、ブヴァールとペキュシェのコピーが全面展開している世界なのかもしれない。

工藤庸子の論文


さて、工藤氏の論文の方は論点を自分なりに。フロベールとジョイス、ボルヘスの比較。
ジョイスとは戯曲のト書きを巡って。「聖アントワーヌの誘惑」からト書きの有用性を活用したジョイス。それは作者の存在を消し潜ませる方法。「ユリシーズ」でジョイスはこのト書きの方法を最初はそれとは気づかない程度に、15章の「キルケー」では全面展開して使ってみせる(丸谷才一氏の「6月16日の花火」への言及あり)。
ボルヘス…ボルヘス自身はあまりフロベール論はないのだが、実は「似ている」からこそなのだ、ということ。ボルヘスの「『ブヴァールとペキュシェ』擁護」はエズラ・パウンドの「ジョイスとペキュシェ」(これを工藤氏はフーコーのものと並ぶ優れたものとしている)に比べると見劣りするらしい?が、そこにはブヴァールとペキュシェはフロベールの似姿なのではないか、と書かれている。そしてブヴァールとペキュシェがつくろうとしていた本は、ボルヘスの短篇の中に再登場するのかもしれない、ともある。

あと二つ余談。
「聖アントワーヌの誘惑」はベジャール演出で舞台化されたという。実はこのフーコーの論文もそれに際して書かれたものなのだけど、この作品舞台化にはかなり向いてないと思うけど・・・
「革命と反動の図像学」で出てきたシュー。上の工藤氏の論文と、それからエーコの「小説の森散策」にも登場してた。ただし、ユダヤ人陰謀説の流布をしたという話題で・・・
シュー週間?
(2014 08/10)

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