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「パリを焼く 呪われた中庭 ばかあかい 羨望」

江川卓 工藤幸雄 吉上昭三 木村浩 訳  20世紀の文学 世界文学全集  集英社

読みかけの棚から
読みかけポイント…オレーシャ「羨望」しか読んでいない

集英社版世界の文学20世紀版、その中の1冊… 「パリを焼く・呪われた中庭・ばかあかい・羨望」ヤセンスキ、アンドリッチ、ゴンブロヴィッチ、オレーシャ 
オレーシャって、初耳な作家、ばかあかいは前に図書館で借りた「バカカイ」のこと…タイトルは日本語ではなく、作者が成り行き亡命?をしてたアルゼンチンの通り名前。ヤセンスキは「無関心な人々の共謀」も読みたい。
この本の帯(ついてた・・・)に「大国偏重を正し、全集に初めて組み込まれた東欧の名作集」という文には、時代を感じて苦笑するとともに。この地域の文学(以外にもいろいろ)に注目している自分にとっては熱いものを感じる。
(2011 10/03) 

オレーシャはオデッサ生まれの両親ポーランド人で、ロシア革命後、ポーランドに移住する両親についていかずモスクワへ。前にチラッと読んだきっかけは沼野氏の「徹夜の塊、亡命文学論」だったはず。沼野氏にはもう一冊「夢に見られて」という本があって、レムとかと並んでオレーシャも論じられている。
(2020 11/13)

というわけで、オレーシャ「羨望」


さて、オレーシャは1899年生まれ。カターエフと同じオデッサ出身、だけど両親はポーランド系。ロシア革命で両親は独立したポーランドへ戻ったが、オレーシャ自身はモスクワへ。この「羨望」は1927年。「三人のでぶ」が1928年。スターリン時代は黙殺されたが、「雪解け」の時代に「筆もたぬ日とてなし」(随筆集)を書く。同年生まれにナボコフがいるが、オレーシャは寡作。訳者は木村浩。

いろいろあるけど、まずは引用(長いよ)。

 わたしはわざと身体を揺り動かし、ソファーの新しい、ピンと張った、処女のようなスプリングの響きをたのしむ。ソファーの深いところから走ってくるかすかな音が一つ一つ感じとれる。水面を目指してあがってくるあぶくが連想される。わたしは赤ん坊のように眠りにおちる。ソファーの上でわたしは幼年時代へとんでいく。至福の時がわたしを訪れる。わたしは、赤ん坊のように、まぶたが重くなりはじめたとき、つまり、目がとろんとしてきた時と、ほんとうの睡眠が始まる時の合間のわずかな時間をふたたび自分のものにする。わたしはこの時間を延長させ、これを味わい、わたしの気の向くままにあれこれと思いめぐらし、なおも眠りには落ちず、目覚めているという自覚を持ちながら、心に浮かぶ想いが夢らしい肉づけを得ていくさまを、水底から浮かびあがるスプリングの響きの泡が、勢いよく転がってゆく葡萄に変わるさまを、またたわわな葡萄の房や、畑の囲いや、ぎっしり入り乱れた葡萄の房や、葡萄畑沿いの道や、日の照る道や、炎熱といったものが浮かびあがるさまを、見ることができるのだ…
(p347-348)


とりあえずここまでの展開としては、語り手カワレーロフ(27歳の青年)は、この時点から二週間前ビアホールで喧嘩して気を失っていたところを、バビーチェフというレストラン経営者?に救われて今は彼の家のソファーで寝ながら事業の手伝いをしている。でもそのソファーは、今は旅行中らしいマカーロフというフットボール選手のものらしく、マカーロフが帰ってきたら語り手は出なくてはならない。またバビーチェフの兄イワンというのが登場するが、なんかお互い激しい対立があるようで罵りあっている…
冒頭の家具が自分を嫌っているという意識(この小説では()で表される p334)、バビーチェフの背中を見て元貴族ではないかと感じた場面(p339)、さっき挙げたビアホールで気を失いかけた場面(p342)など、細部に読みどころがある。
(2020 11/15)

発明家イワンと父

 諸君は呆然となる。法則の破壊が、それほど不意であり、釣り合いの変化が、それほど信じられないものだからだ。しかし諸君はめまいを喜ぶ…。わかってしまえば、諸君は空色に光る四角の鏡のほうに急ぐのだ。
(p380)


そして「羨望」はp382から第2部に移る。中心人物もアンドレイから兄のイワン・バビーチェフに移る。

 もし不潔とおしゃれをいっしょにすることが可能だったら、彼はまったくそれに成功していたといえるだろう。
(p389)


イワンは何か変なものを発明する「機械屋」であり、後にはインチキ説教者としてビアホールをうろついて追い出されたりする。イワンとアンドレイの兄ロマンはテロリストとして処刑されていた。
彼らの父親は中学校の校長で、ラテン語の専門家だった(この父親が息子達に覚えた失望感…ひょっとしてオレーシャの息子としての自己意識と関連するのかも(想像するだけにしておきますけれど))。イワン12歳の時の「注文に応じてどんな夢でも見せられる装置」で、父親が古代ローマの夢を見たいと脅した時のことを回想するイワンの「演説」から。

 ひょっとすると、父は夢の中で行われていた歴史に対する嘲笑に我慢することができなかったのかも知れません…きっと、父は風船に乗って飛んできたバレアルの投石手たちが戦いの終末を決定するような夢をみたのでしょう…
(p385-386)


(2020 11/21)

ガラスのビンの煌めき…


「羨望」を読み終えた。
第一部の最後は、第二部の第四章に繋がっている。
イワンの「説教」によると、前世紀(19世紀)の感情的古い人間は、新しい時代の感情から解放された人間に対して羨望を持っている。イワンはその感情人間の代表を捕まえ、最後にそのような人間の見本品として見せてやりたいのだと、羨望という感情については、それがカワレーロフなのだと。

 そして、もしわたしたちのあとをだれか空想家がこの道を通るようなことがあったら、その人はこの有名なガラスビンを、また、不意にごみくずや荒廃の中にあってピカリと輝き、孤独な旅人たちにさまざまの幻影をつくりだしてみせるという特質のために作家たちによって讃えられている有名なガラスの破片を眺めることによって、またとない満ちたりた気分になることでしょう…
(p410)


自分としては、この小説、筋がどうとか、思想がどうとか、構成がどうとか、言う前にこうした詩的断片の輝きに惹かれるのだけど。このp410の文は、作者自らこの作品の読み方を示しているような気がしてならない。

 あの連中は大蛇がウサギをのみこんでしまうように、十九世紀をのみこんでしまうのです…よく噛みしめて、消化してしまうのです。有益なものは吸収し、有害なものは吐きだしてしまうのです
(p411)

 こうしてわたしは未来の人びとの神ともいうべき機械を嘲笑したのです。彼はあの機械に、愛と絶望のために気がちがった娘の名前を、オフェーリヤという名前を、つけてやりました…
(p412)


結局、オフェーリヤというものが、どんなものでどうなったのか、複数の可能性が示されている作品内では自分はよくわからなかった。
古い人間たちは果たして自滅したのか…
とりあえず、20世紀のとば口でこういう考えがあったことは、今の時代には記憶しておいていいことなのかもしれない。
(2020 11/23)

補足1:沼野充義「夢に見られて」より


オレーシャ-ドストエフスキーの影響という点から見た
オレーシャは本人はトルストイが好きらしいが…ドストエフスキー的モチーフもちらほら。「羨望」のカワレーロフは「地下室人」の典型だし、イワン・バビーチェフの少女に対する愛憎合わせた感情もドストエフスキーの主人公によく見られる。弟アンドレイの「25コペイカ食堂」は、これら「地下室人」が憎悪する理性的な「水晶宮」(ドストエフスキー)を数字を明示することによって明確に受け継ぐ。けれど、ドストエフスキー的ポリフォニーを、文体や構想を現代化することによって批判的に受け継ぐ(オレーシャは「白痴」を舞台化した時にいかにもドストエフスキーらしい夜会の座興を別のものに変えたという)。
(2020 11/28)

補足2:古宮路子「オレーシャ『羨望』草稿研究 人物造形の軌跡」成文社(2021)


本の紹介記事(東京大学ビブリオプラザ)から大雑把にいうと、元々イワンを軸に作っていた小説を、カワレーロフに負のイメージを追加していくに従い、こちらが主人公になった、らしい。本編に入れられなかったエピソードも多数あるという。これも読んでみたいのだが…
(2023 03/07)

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