「小説というオブリガード ミラン・クンデラを読む」 工藤庸子
東京大学出版会
本のタイトルにある「オブリガード」とは、音楽用語で、ある楽曲のなかで、特定の声部や楽器が「欠くべからざるもの」であることをいう。
Ⅰ クンデラによる七つのノート-『裏切られた遺言』を中心に
狭間で生きてきた「周辺」のいいとこ取り、のような感じか。中欧論と言われるものを少しは読んでみたけれど、こういう視点はなかったと同時に、「不思議な混在」の具体的例をもっと知りたいとも思う。確かにチェコにはそういうものがあるとは思うから。
つい上で自分も「視点」という言葉を出したけど、既存の批評装置や概念は、音楽(聴覚)、におい(嗅覚)などの持続しながら微妙に変化しているものに目(ではない、耳や鼻…)を向けてなかったのかもしれない。この意味でも先駆者だったのがプルーストなのだろう。
人間の知覚における視覚の重要性、それに西洋キリスト教世界の見ることへ与える特別性(ヴィジョン)など、仕方ないところもあるとは思うが。
最後の(やはり?)7節「作家の遺言」(ここが特に「裏切られた遺言」と関係する)、マックス・ブロートは、カフカの「遺言」を破って作品を発表した。しかしそれだけでなくて、ブロートはその文学を裏切る「批評」をもしている、とクンデラは言う。例えば、作家個人のミクロ的な批評、美的技法的側面を無視した思想的批評、他の現代芸術の枠組を無視…など。ではクンデラの「批評」とは。
一方、第二次世界大戦後フランスの新しい批評や思想について、クンデラはかなり批判的(これはゴンブロヴィッチもそうだという)。工藤氏はその理由の一つは、それらの批評(特にナラトロジー)がやはり19世紀のクンデラのいう第二期小説を「モデル」とし、第一期と第三期(ドン・キホーテや現代小説)をそこからの距離・逸脱で測ろうとしているからだ、と見ている。
(2023 02/12)
Ⅱ「不滅」を読む-小説論の方法
1、目次について
クンデラの7番目の作品「不滅」…
次の「緩やかさ」は(7部小説を7作書いたからか)、51の断章がつながる形。工藤氏によれば、この51という数字は「7×7+序章+コーダ」なのだとのこと。
ここで取り上げられているナボコフ作品は「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」。この作品の表紙に「小説」と掲げるのは、小説の主題に抵触してしまう。一方、表紙に「小説」と掲げているクンデラ作品は、小説にすぎないことの認知を読者に加速させる趣向を持っている。
これは「注」から…今の自分的にはボルヘスよりコルタサルの方のイメージだけど(「続いている公園」とか「悪魔の涎」)。それはともかく、クンデラの小説手法とビオイ=カサーレスの小説は、比較できる次元とは思っていなかった…ここは自分的に要検討。
(2023 02/14)
2、顔のない小説
p43-44で引用されるファーストフード店の顔の点描の生々しさ、小説第一部「顔」の顔はこのような顔、そしてそれらを知覚(様々な知覚総動員)してしまう無防備な顔のそれである。
近代小説はバルザックにしてもフロベールにしても「顔」の描写から始まる。そして、そこからの逸脱加減でどんな小説作品なのか判断されてしまう。
今すぐ思い出せないけれど、確かにそんな人物いた…まだ読んでいない「冗談」はまさに全体主義国家における写真等情報の管理から起こる悲劇でもあった。一方、「不滅」はフランスが舞台であるが、事態は変わらないのか、別の理由か、それともどちらも変わらず一貫した思想なのか。
アニェスの夫ポールよりも、彼女の死を悼むのが愛人?ルーベンス。彼女の顔を思い浮かべて、その像が穏やかに変容して死の顔になる…しかし、変容はそこで終わらなかった。
顔のない人間の世界は死の世界、そして醜く個々の顔を描くことができない現代(それは近代が引き起こしたものでもある)もまた死が忍び寄っている。この手段はウォーの「愛されたもの」と関連している。続けて読んだら繋がって面白いかも。第一部最後の文が、カミュ「異邦人」のピストルを弾く時の文と(原文では)似ているというのも気になる。
(2023 02/15)
3、「不滅」をめぐる主題とモティーフ
ここでは主に身体論、身体描写、性行為(近代小説は性行為そのものを描いてこなかったのでは?)、身振りと仕草など。標題に関わるところから一箇所引いてみる。
主題が例えば「顔のない対象」だったとしたら、モティーフは例えばアニェスが登場する時の身振り。それは後々いろいろな場で出てくるが、それはアニェスに関連するかしないかは関係がないもの。(近代の)ヴァグナー的モティーフはそれを人物と結びつけ専有させる。
(2023 02/16)
4、物語の構造
上の文章のうち、「…スタイル」まではクンデラの主張。
セルバンテスの小説において、ある出来事と他の出来事の順番を入れ替えても、ほとんど影響がない。それに対して時系列化したのは、スターンとスコット、ディドロとバルザックの間、ということらしい。
フロベール「感情教育」。こういう作品は小説の王道のように思えてしまうけれど、実はそれほど実例は多くないのでは。
そして、「失われた時を求めて」をクロノジカル(年表風に)に再配置する試みはことごとく失敗している、と工藤氏。冒頭の宙吊りになった「私」の意識に、第七部までの何かの記憶が挟み込まれている。
クンデラが認識する未来の小説のための四つの「呼びかけ」(「小説の精神(技法)」の第1章かららしいのでそちらも参照)
1、遊びの呼びかけ
2、夢の呼びかけ
3、思考の呼びかけ
4、時間の呼びかけ
5、文字盤と変奏曲
「時計の文字盤」…第六部のタイトル。人生の隠喩(生から死への出来事が書かれている文字盤の上を人という針は進む)。先の4つの呼びかけ(遊び、夢、思考、時間)に関わる、そして作品タイトル「不滅」と相対する。
クンデラの作品を読むにあたって、章名を文字盤の番号として、そこを進み、そして文字盤の外に出る(死など)、という操作は有効かもしれない。
今日はp128まで。
(2023 02/17)
第5説続き。
「主題と変奏」。予め(ア・プリオリに)空間を区分し、速度記号を記入された小説。空間分節化テクスト。
工藤氏が重要だと考える、分節化されて内部区分の冒頭。
「ポリフォニー文学」についてのクンデラの考え。
ちなみに、ミシェル・ビュトールの「ディアベリのワルツによるルードヴィヒ・ファン・ベートーヴェンの三十三変奏曲との対話」も、空間分節化テクストの一例。そこでは活字の種類も予め決められている。
(2023 02/18)
Ⅲ フランス近代小説をめぐって-身体論の地変へ
(クンデラ論はしばし休み。これはクンデラ流に言えば、コンチェルトのソロ楽器が一切沈黙し弦楽合奏だけで奏でられる楽章となるのだろうか…まあ、この本も初出はいろいろなのを合わせたものだから…)
バルザックの時代には、骨相学を土台として顔など身体的特徴が集中して書かれた。プルーストの場合は、それを見る視線の方を重視する。
小説における同性愛について。プルーストの時代にはかなり屈折して織り込んだ同性愛の主題は、1980年代くらいからそのままストレートに主題化できるようになった。でもそれはそれで「まきこまれた」ものであろう。
上は昨晩読んだところ。今日第Ⅲ部読み終えた。まずは自分なりのポイント列挙。
ゾラ「生きる歓び」では、出産の描写が初めて直に描かれている。
モーパッサン「女の一生」のラストで、女主人公が昔住んでいた荒れた城館に戻ってきて、その建物の匂いを嗅いで昔を思い出すシーンは、プルースト的主題のはしり。
フロベールは両性具有的。ボヴァリー夫人の光線の震えの場面の「振動」を表す単語の使い分け。
プルーストはアルベルチーヌを男性のモデルから作り上げた?そして、この小説を書きながら、プルーストは自身が女性化することに快楽を見出していた?
娼婦と客としての男。この図式を逆転させたのが20世紀に入ってからのコレット。そのコレットを含む女性同性愛者は、プルーストのソドム(男性同性愛)描写には賛同したが、ゴモラ(女性同性愛)描写には反発したという。
とにかく、19世紀小説は男性作家による女性の性愛描写が主で、男性の性愛描写は未知の領域だった。男女のあいだのこぼれ落ちている領域を拾おうとしたのがプルースト。
では、まずプルーストの引用文から。シャルリュスとジュピアンの同性愛者が奥の部屋に入り、それを「私」が盗み聞きするシーン。
盗み聞きだけあって、聴覚を通じた書き方になっているのと、前半の鬼気迫る文章と後半のなんだか長閑な文章の対比…じっくり読みたい(長い)…
「失われた時を求めて」の第5部入ったところで挫折(中断?)した自分が、例のマドレーヌの場面、第5部の「私」が起きる場面(ここ初めて邦訳された箇所でもある)と並んで格別印象に残っている、「花は性器だ」説。ダーウィンの影響もあって、実際にこういう話がサロンで話されてもいたらしい。
残りは第Ⅳ部。
(2023 02/21)
Ⅳヨーロッパ文化とクンデラ-文化論的記述の試み
「最小限の空間に最大限の多様性」というのはこの第Ⅳ部の通底する主題になっていく。
ここでの同化とか、下の文の「テーゼ芸術」というクンデラが反対するものを代表するのが、オーウェルの「1984年」など。同化はともかく、風刺は別の側面もあるように自分には思われるのだが。
クンデラがムカジョフスキー、ヤコブソンなどのプラハ ・サークルを誇りにしているのに、バフチーンにほとんど言及がないのは何故か…興味深い問いが立ててあって、答えは宙吊りのまま、デイヴィッド・ロッジ『バフチン以降』(クンデラ論も有り)に横滑りしていく運び。
ジャファはフロベールが実際に立ち寄ったイスラエルの港町。クンデラがフロベールを高く評価する、散文的詩情の開拓者的側面。汚いものや臭うものと、美しいものの同時併存性、これがここのフロベールから、カフカ 「城」のKが知り合った女と性交する場面を経て、クンデラの汚物とともにある性交場面の執拗さへ。
『ヴェールをまとったオリエント』(アラン・ビュジヌ著)という本では、ヴェールを剥がすという行為を西欧哲学の底に見る。一方、それに対して戦略的にヴェールをつけるというオリエントの方策。
ここでの「わたし」は工藤庸子氏。身体に文化が織り込まれ、逆に文化も身体的コードに溢れている。そうした端境の様相を描くのもまた小説(散文)なのだろう。
(2023 02/22)