「殺人協奏曲」 J=R・サラゴサ
喜多延鷹 訳 新潮・現代世界の文学 新潮社
サラゴサとグリーンとセルバンテス
今日からスペインの作家サラゴサの「殺人協奏曲」を読み始め。なんだか推理小説的なタイトルだが、どっちかと言えば歴史SF…ちなみに原題はコンチェルト・グロッソ…合奏協奏曲(主にバロック時代の主要ジャンル)
さて、標題。サラゴサ自身の好きな作家はグリーンなのだそう。意外な感じがする?そうでもない?…そのグリーンの好きな作家はセルバンテス…「全ての近代小説はドン・キホーテのバリエーションである」という言葉が解説にあったが、本人は真面目にやってるのに、周りには狂気にしか見えない、というのは確かに…
さて、実際の作品について。3部構成の第1部(古代ローマ、ティトウス帝の時代)ののっけから蒸気機関の自動車が登場するというSFっぷり…と、思いきや、ヘレニズム時代のアレキサンドリアのヘロンという人は蒸気機関のカラクリを作っていたみたい(前、ディスカバリーチャンネルかなんかで見たような)。実用化は考えなかったみたいだが…だから、全くの空想話でもないみたい…ニアミスの可能性も…
(今日の日記は「みたい」が多いみたい…)
(2011 08/25)
ローマ78年
昨夜、第1部ローマを読み終わった。
前も述べた通り、この小説の原題は「コンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)」というもの。作品の構成上このタイトルの意味が生きていて、ローマとか近未来のアメリカとかの背景(オーケストラ)に、合奏協奏曲でいうところの弦楽四重奏(ほか)にあたる主要登場人物(マルコス、アドルフ、メラニア、セリア)が浮かびあがる、という仕掛け。はたまた、も少しひねくれた読み方してみれば、ローマとかアメリカとかいう帝国的世界に浮かびあがる(または踊らされている?)ヨーロッパ各国…という気もしてくる。
でも、作者的には、まだまだ深い意味をこの合奏協奏曲というタイトルに込めていそうな気がする。人間のやることなすこと時代変わっても皆同じ…みたいな。
印象的な場面としては、老プリニウスの述懐、セリアが風呂で静脈を一つ一つ切りながら自殺するところ(「黒の過程」でのゼノンの死も連想させる)、最後の場面で、善良なる?マルコスが、ヒトラーの化身であるアドルフと共に高笑いして死んでいく…など。
第2部に続く…
アメリカ2016年
「殺人協奏曲」の続き。今朝読んだところ。
第2部は近未来のアメリカ。舞台は2016年の大統領選(って、次?)。ここでもマルコスカルテット?が現れ、全体主義か個人か、という闘争をするのだが、というより近未来に生きる?自分としては、ここで言われている「自由を推し進めていった為、社会が混乱してくる」という前提自身がどうかな?って気がしてくる。新自由主義とか言われるものを見てると…でも、アレは本来の「自由」なのか?と言われると、違うような気も…
もう一言だけ。現大統領の秘密夕食会で、諜報局の人が言う、個人のいろいろな発言等の断片を、一つの全体像に仕立てれば、なんらかの社会的動静が見てとれる…というのは、「夢宮殿」の現代バージョンか?というより、どっちもあんまり変わらない…のか?
うーむ(締めがうまくいかない時の日記の常套手段…)
(2011 08/29)
主体性の難しさ…
「殺人協奏曲」…8月中に読み終わりたかったけど、9月にはみ出しそう。
今朝のところは、パラ産業とアドルフ邸での血湧き肉踊る?大活劇といった感のある場面。そんな中、ここでのキーは人間の主体性という問題。なにしろ、パラ産業では生身の人間にコントロール装置を取り付け感情や意思などを操作しているのだ。また、完璧だけど完全なるサイボーグ人間も試作完了らしい。まあ、この主題はカレル・チャペックなど、さまざま豊富なのだが、この作品では主体性が何より大事である、という主張がされる。フランコ総統の死から十年もたっていない時期に書かれたこの作品のキモであり、西洋の思想の根幹である、この主体性という問題。西洋と日本ではまたいろいろ違うので…とかいう話もあるが、逆にそういう話自体の出所も確かめたいところ。
感情や意思はいついかなる時でも、コントロールされる可能性があるのだ…
(2011 08/30)
構成のほころび?
今日は、第2部アメリカ2016年の終わりと、第3部パリ1776年の始まり。第2部でマルコスの善良さは証明されているかに(普通以上に)思えたのだが、秤は00.00。善悪釣り合っているとの判断。それで(第2部でどうして「私はアドルフ・スターンに投票する」という念力の呪縛が解かれたのか?の謎を残しつつ)第3部へ。
今度の技術は電気。ある城で行われたアカデミーでは、ヴォルタやヴォルテールやベンジャミン・フランクリンを一同に介して、電気の実験を。そこで準備するのが、またしてものマルコスカルテット。でも、その一員メラニアが「なんかアドルフのこと前から知っているような気がする…」との台詞を。そこ、登場人物自身が勘づいてしまえば、この小説自身が成り立たなくなってしまう?…で、標題。この破れはもちろん故意的なものだけにどうなるか注目。
そして、小説はヴォルテールがヘンデルの合奏協奏曲を聴きながら、この小説の構図そのものともなる文学論を論じ…そう。小説構成マニアとしてはじっくり読みたいところなので(笑)、今日はその前で止めておいた。
(2011 09/01)
科学者の素質は実験結果に影響するのか
まずは、昨日予告してた?通り、「殺人協奏曲」の構成をヴォルテールが述べるところから。
この時代、交響曲という名称がどのくらい流布していたのかも、またこの時代の小説(自分はヴォルテール自身の「カンディード」がどんな小説かすら知らない・・・)が本当に直線的であったのかもなんか不明ですが、まあ、それはそれでよい(笑)。でも、ここでのヴォルテールの話すことを聞いていると、この小説は「殺人」という筋がいろんなヴァリエーションで現れるので、「殺人協奏曲」という標題もよいのかな、と思ってしまう。って、書いていて、いろんな殺し方を列挙していて、最後は小説家のタイプライターで登場人物を抹殺した「煙滅」のラストを思い出した。
で、標題。とある城内で開かれていた科学アカデミーと、それを嘲笑するカリオストロ逹との比較が面白い。芸術ならば芸術家の素質を考えるのに、何故科学者にはそれを適応しないのか、というカリオストロの言葉には考えさせられる。自分は常々、科学も結局は人間の術なので、芸術的要素(本であれば読みやすさなど)が必要不可欠だと思っているので、余計に…でも、化学反応を起こす力が愛だ、と言われても困るしなあ(笑)。
「殺人協奏曲」は意外に明るい終わり方・・・
ということで、「殺人協奏曲」を読み終わった。はみ出しは2日まで。
ちょっと女性側からの反論もあるかもしれないなあ。それはともかく?、このアドルフとマルコスというのは、こんな冒険をする人だけでなく、意外に近くにいる人々なのかもしれない、と思った。ちなみに第3部では後述の場面を除きセリアは登場しなかった。だからマルコストリオになるのか。
筋的には、父親のフルーリ伯爵(アカデミーが行われている城の持ち主)を電気実験で殺害し、それが露見してトリオが逃げて駆け込んだところがカリオストロの実験室。追っ手がやってくると、カリオストロ=サラゴサは不思議な煙?を出して、異次元へと皆を連れ込む。と、そこには各時代の登場人物がなんか勢揃いして寛いでいる(ここでセリアも出てくる)。で、ラストはカリオストロ=サラゴサがまた別の薬をトリオに振りかけ、トリオは若返り赤ん坊になりそして卵?になる。
前に「構成上のほころび」という話をしたが、ここにきてほころびどころではない、犯人は作者だ!的な、感じ。ちなみにカリオストロって聞くと、自分の世代はやっぱりルパン3世なのだが(笑)、実在するという人物はどんな人なんでしょうかねえ。
と、ここで、終わるのか、と思いきや、最後の最後になんとフルーリ伯爵が生き返り、なんと歩けなかったのが歩き出してしまう。そうして、合奏協奏曲とともに明るく終わる・・・フランコ政権からの解放を反映しているかのような、明るい終わり方。
ひょっとしたら、この最後のどんでん返しは、フランコ政権が終息した時に、急いで付け足しされたものなのかもしれない。それまでフランコ政権下で、じっくりこの作品を秘密裏に書いていて、それで、解放された時に付け足して完成とした。そんなことはないかもしれないけど、そんなストーリーをつい想像してしまうほど明るい、印象的な終わり方。
(実際はフランコの死の後、3年かけて書いた作品)
(2011 09/02)
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