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「モダニズムの詩学 解体と創造」 丹治愛
みすず書房
1 イントロダクションーモダニズムとはなにか
2 ヒューマニズムと反ヒューマニズムーT・E・ヒューム『思索集』
✳︎
3 神話と歴史ーニーチェ『悲劇の誕生』とジョイス「ネストール」
4 音楽と言葉ーニーチェ『悲劇の誕生』とジョイス「セイレーン」
5 印象主義とフォーマリズムーロジャー・フライ『ヴィジョンとデザイン』とウルフ『灯台へ』
6 異教とキリスト教ーフレイザー『金枝篇』とロレンス『逃げた雄鶏』
7 非理性と文明ーフロイト『文明への不満』とウルフ『幕間』
注
あとがき
索引
たしかにモダニズムは過渡期であろう。しかも直線的な進歩の途上にあるという意味での過渡期ではなく、ひとつの秩序が解体され、そのかわりに新しい秩序が創造されつつあるという、歴史の断絶の感覚をともなった過渡期、したがって不安と希望の双方にいろどられた、多少とも黙示録的な転形期としての過渡期である。
(p5)
過渡期としてのモダニズム。
(2019 08/02)
第2章と第3章、ヒュームと「ネストール」
第2章はヒューム(経験論哲学者とは別の20世紀のヒューム)の美学の展開。ベルクソン的な生命の躍動の混沌から、宗教的、美学均衡へ。「柔らかいものから硬いものへ」(エズラ・パウンド)という第1章で出てきたモダニズム図式に一番合う。
第3章は歴史的決定論からの「目覚め」としてのユリシーズ。主に第2挿話「ネストール」から。芸術家になろうとしてアイルランドを脱出したスティーブンは、失敗してダブリンに戻る。芸術家としてのダイダロスと、そこからの墜落というイカロス。こうした神話の重ね合わせは、エリオットに物語の通時的語りから、類似、イメージといった共時的語りへの転換とされる。スティーブンはアリストテレス的な「質料に対する様々な形相が殺到する運動」というのを導入し、アイルランド民族主義の、またキリスト教的、ヘーゲル的決定論から自由になろうとする。それはニーチェやキルケゴールから受け継いだもの。
「非存在」でありながらそこに在るというそのような存在、これこそ可能性にほかならないのだ。そして「存在」としてそこに在る存在は、まさに現実の存在であって、現実性にほかならない。とすれば、生成の変化とは、可能性から現実性への移行なのである。
(p70 「哲学的断片」キルケゴール(1844))
(2019 09/15)
第4章「セイレーン」
第4章は「ユリシーズ」の「セイレーン」挿話から、音楽と言葉。芸術家としての作家は常に音楽(シニフィアンしか存在しない)に憧れている。しかし言葉を使用する文学では、それを完全実現することはできない。「セイレーン」挿話では、後から出てくる擬音語(「ジングル」等)を脈略なしに突然出してみたり、新規な擬音語を作ったりしている。言語芸術たる小説は後でシニフィエの網に再構築されざるを得ないのだが、それでも意味からの解放をかいま見せてくれる。
第5章「灯台へ」
第5章は「灯台へ」のリリー(そしてウルフ自体の)芸術観。リアリズムから印象派を経て後期印象派へ。リリーは印象派そのものの画家ポーンスフォート(ホイッスラーがモデルらしい)を批判して、一度溶解してしまった色とフォルムになんらかのの新たな構図を見つけようとする(それが後期印象派の立場)。けれど、丹治氏は印象派は単に超克されるべきとはなっていないと指摘。それが何故かの説明が読んでいる身にはちょっと不十分には思えるが。あと、ラムジー氏がヒューム(こちらは経験論哲学者)などの経験論の研究をしている、というのも気になるところ。
心は、ささいで、幻想的で、はかない、あるいは鋼の鋭さで刻みこまれた無数の印象を受けとる。それらは、四方八方から数えきれないほどの原子の絶え間ない驟雨となって降りそそぐ。[中略]心に落ちかかる原子を、それらが心に落ちかかるそのままの順序で記録しよう。いかにそれが一見したところ関連も統一も見えないものであっても、それぞれの光景あるいは出来事が意識のうえに刻みつける模様をたどろう。
(p120ー121 ウルフ「現代の小説」から)
(2019 09/17)
ロレンス、ルナン、フレーザー、ウェーバー
「モダニズムの詩学」第6章。ロレンスのイエス・キリストの死ななかった話を中心に、19世紀後半の合理主義とキリスト教、その前?の原始的宗教との関わり。「イエス伝」のルナンはイエスの生涯から宗教的記述を取り払い、「金枝篇」のフレーザーはヨーロッパにも下層には原始的宗教のエネルギーがある(それを警戒した)。
ロレンスはこの作品において、死ななかったイエスはのちにエジプト神話のオシリスとなって、キリスト教の直線的時間感から生と死の円環の時間感に変化していく、というもの。あとマックス・ウェーバーの愛人?の姉とロレンスが結婚して、ウェーバーの弟アルフレッドの別荘にも滞在したことあるみたい、ロレンス。今まで知らなかったつながりがいろいろ…
(2019 09/19)
戦間期と「幕間」
「モダニズムの詩学」最終第7章は、フロイト精神分析とウルフ「幕間」。ブルームズベリーグループでは精神分析家が出るほどのつながりがあったフロイト学派だけど、終始ウルフはやや冷淡な批判的立場をとっていたとされる。
しかし丹治氏は、第二次世界大戦に近づくに連れフロイトに共感していったのではないか、と考える。その作品の具体的例がこの遺作の「幕間」。睡蓮の池、池の緑色の水が、(今まで多く出てきた無意識、野蛮性の下部構造として)、ヨーロッパを滅ぼし、そしてそこから再創造される。ウルフが活躍した両戦間期というのは、そうした「幕間」の時代。
そうだとすれば、「幕間」というタイトルはなによりも、ラ・トローブのふたつの劇(すなわち歴史)にはさまれた無明の洪水の夜を意味することになるであろう。
(p219)
ラ・トローブはキリスト教の神とは違い、実際の人間。自分が創造したアダムとイブから派生して生まれる、という。
(2019 09/28)