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「可能性としての国家誌ー現代アフリカの国家と人と宗教」 小川了
世界思想社
こぶと国家
序論は借りた日にざっと読んで、今日は第二章「国家の様態とインフォーマル・セクター」の前半部。アフリカ国家論・・・の中で、アフリカでは国家は「こぶ」とか「贅肉」みたいなものという指摘がわかりやすかった。必要悪ではなく不必要悪なのだろう。
この本の(また前に読んだ鷹木氏とのつながりでも)主要論点は後者インフォーマル・セクターの方だから、そっちはこれから。
(前に読んだ本というのはこちら「北アフリカのイスラーム聖者信仰ーチュニジア・セダダ村の歴史民族誌ー」鷹木恵子 刀水書房)
(2015 12/19)
セネガルのムリッド教団
「可能性としての国家誌」から、いよいよセネガル国内で大きな勢力を持つムリッド教団の話。始めはフランス植民地政策に反対して旧王権の武力勢力などを取り込んだが、後には集団農場みたいなものから新しい村を作り、そこで今でもセネガルの主要産物である落花生を集中的に生産。それをフランス植民政府に納めるという方向に舵をとる。なんだかご都合主義的なインフォーマルセクター。
でも、こういうところが庶民の行き場所となるのだろうなあ。
(2016 01/03)
朕達は国家なり
「可能性としての国家誌」セネガルのインフォーマルセクター続き。国家というものが脆弱なセネガル(アフリカ諸国全般)には、インフォーマルセクターの組合というものがある。その組合長が言った言葉が標題。
「朕は国家なり」はルイ14世だが、その「朕」のところを複数形にした表現。これは誇大表現でもなく、セネガルで国賓を招く時に大統領の側近としてこの組合長が並んでたりするという。
また、1995年にセネガルでは米(セネガルでは主食の一つ)の輸入(ほとんど輸入に頼っている)の販売が、レバノン・シリア商人の専売からセネガル国民にも自由化されたのだが、その交渉にもこの組合が一役かったという。
(西アフリカでのレバノン・シリア商人といえば、「事件の核心」を思い出す。かなり入ってきているのだなあ)
で、この組合員のだいたい8割くらいが、昨日挙げたムリッド教団の成員だという…
(2016 01/04)
国家もセクターのあくまでひとつ
小川氏が描こうとしている「国家誌」は、国家自体の様相ではなく、国家と人々、社会がどうとり結ぶのか、ある場合は孤立し、ある場合は利用し、ある場合は反抗し、ある場合には押さえ込まれる。国家もサブシステムの一つという指摘もあって、そうなると国家と社会は対立項ではなく、並列並びになる。
セネガルの場合は、それがイスラームの教団、特にティジャーニ教団とムリッド教団の二大教団によって社会側がある程度取り込まれている。前者は元々都市民を中心に、後者は元々農村部を中心に、ただ1980年頃にはムリッド教団もダヒラという末端組織をダカール始め都市部に広げ、都市文化の創成にも重要となってきたという。
小川氏はタンザニアのンジャマー社会主義とも比較しながら、アフリカ諸国の国家と社会との関係を探っているが、他の(例えば近隣の西アフリカ諸国)国では教団の力はどうなのだろう。マリやギニアなど独裁強権国家だったところでは、国家対社会というより、国家対個人という図式になる、と書いてあったが。コートジボワールとかガーナとかとはどうかな。北アフリカについても…
後は、個人的にはトンチン講という数人程度の頼母子講(少額積立)の記述とか面白かった。
(2016 01/05)