「ノヴァーリス作品集3」 ノヴァーリス
今泉文子 訳 ちくま文庫 筑摩書房
夜の賛歌
聖歌
キリスト教世界、またはヨーロッパ
信仰と愛
一般草稿(抜粋)
断章と研究 1799-1800(抜粋)
日記
夜はやっぱりノヴァーリス
今、夜は、ノヴァーリスの一般草稿を少しずつ読んでいる。ノヴァーリス版百科事典。でも、ノヴァーリスの場合、統合をより目指している。例えば化学と音楽の融合とか。そうやって全てを融合すれば新たな地平に人間はたどり着ける、と、ある意味人間存在を世界史上最も高いところに置いたドイツロマン派ならではの考え方。それを味わう、愉しみ。
(2007 11/10)
ノヴァーリスのちくま文庫版全集から、この間買った第3巻。その中の「一般草稿」読み終えた。フィヒテとプロティノスが彼のお気に入りみたい。ノヴァーリスとは筆名で、確か「耕す人」とかいう意味。
(2007 11/22)
「断章と研究」から([ ]内は断章番号)
最初のは「想像の共同体」を、次のはスクリャービンの色彩ピアノとかの先駆を、存在するものが既に過去のものであるとする次の断章経て、最後のは後にベンヤミンが「アレゴリーとバロック悲劇」で引用している(「ベンヤミンコレクション1」)
(2020 07/12)
オクタビオ・パス「弓と竪琴」から
ドイツロマン派(主にノヴァーリス)から、ボードレールやポーなどへ、そしてシュルレアリスムの20世紀へ。このインスピレーションに関していえば、ノヴァーリスとシュルレアリスムが他者性に開いた、その中間は裂け目に苦しんだ、という見立てをパスはしている。
ということで、まずはノヴァーリス。
ここの「人」とは誰を指すのか、パスは考えていく。このノヴァーリスの言葉は、この後変形されて再登場する…
あれ、どこが違うのか、ひょっとして同一? とも思ったけれど、「詩人は」が「詩は」になっている。この「詩」は、「詩的なるもの」と呼ばれているものだろう。
(2022 09/11)
「夜の讃歌」(金曜日)、「聖歌」、「キリスト教世界、またはヨーロッパ」まで。
最初から一通り読み直し。
「夜の讃歌」は訳者今泉氏によると、ドイツロマン派のクリシェたる、夜、病、死の讃歌と今までは読まれ過ぎていたが、通して読むと、光への讃歌の箇所もあって、ノヴァーリスを固定のイメージで括るのは危険であることがわかる(これは他の作品でも言える)。作者は、題名を「夜に奇す」に変えたいと書簡で書いていたらしい(それが無視されたのか、届かなかったのか、作者が納得させられたのかは不明)。
「聖歌」はその名の通り讃美歌。民謡調の曲つけたり、あるいはシューベルト(ちょっと下の世代か)が曲つけたり。あるいはノヴァーリスの父親が聞いて息子の作品と知り嬉しかったとか。そして、次の講演と双子的性格の作品。
「キリスト教世界、またはヨーロッパ」…作品(というか講演)半分超えるくらいまでは、中世カトリックキリスト教を褒め称え、近代プロテスタント、啓蒙主義(カントなど)を批判する内容だったのが、終わりになるとカントの見えない教会の構想と合流する、という、これまたノヴァーリスらしい止揚主義。そして時代はナポレオンによってローマが攻撃され、教皇が追われて死んでしまうという時にあった。
この二つの文章の辺りはまだ啓蒙思想について批判的な論調。ただ、読んでいて面白い?のはこっちの方なのだけど…p97の最後の文が特に気になる。プロテスタントは「いっとき」しか成立し得ない事態をずっと留め置いているということか。p105に関しては何もなく、単に巧みだなというだけ。なんかスタジオジブリ辺りでありそうな映像…
(ちょっと偏りすぎてノヴァーリスに叱られそうだけど…)とにかく、この辺のノヴァーリス、シュライアーマッハー(この論考の土台となった講演を行った)、カント、シェリング(この作品や「聖歌」などをパロディー詩を作って批判)、フィヒテ(まだこの本では全面的に出てこないけれど、この人に対してもノヴァーリスの愛憎の二面が見られる)など。あまり前提知識は無いが、楽しそうな?時代。
(2023 02/06)
「信仰と愛」
ここで王と王妃が理想的に描かれているが、フリードリヒ二世の「君主は国家第一の下僕にして、国家第一の官吏である」という有名な言葉を否定し、国王は国民とは全く違う者だという。王妃も同じく。これは、精神的な(肉を持たない象徴的な)王であり王妃である、と自分は想定する。それによって君主制と共和制との融合、最後の断章で描かれていることが説明できる。
…ちょっと前に戻って3箇所。
恋人も随分大きくなったが…ノヴァーリスの婚約者ゾフィーが1797年死去し、その後、新王(フリードリヒ・ヴィルヘルム三世)成立に合わせこの論考が書かれた。が、新王の不興をかい、最後の「政治的アフォリズム」は掲載を認められなかった。
「発熱状態」というと、自分はグラックの「シルトの岸辺」を思い出す。あの小説含め発熱状態はやはり危険を孕み無理をしていて、成長や変革も可能だが、また代償も伴う。現代の経済成長信仰がまさにそれにあたり、代償として地球環境の悪化などを招いているのではないだろうか。もう一度確かめると、発熱状態というのは病気の徴候なのだから。
ノヴァーリスのいう「人間性に対する自分たちの感覚とその観察」(p169)が法源であるとするならば、確かにその法は例えば小説作品とも一致する。
1922年、トーマス・マンは「ドイツの共和国について」という講演で、この「信仰と愛」を何度も引用し称揚している。それに対し聴衆はブーイングで答えたという(「非政治的人間の考察」1918)からの変転に呆れたともいう)。マンがこのアフォリズムをどう読んでいるのか、気になってきた。
(2023 02/07)
一般草稿-百科全書学のための資料集(その1)
「夜の讃歌」でも垣間見られた、死、病気への称揚。ここでは、そのドイツロマン派クリシェを突き抜けていく先を見ている、と思われる。
数学が悟性、人間の考える抽象的な様式、それを可視化し道具化したものだ、という考えが面白い。その他に頭の中のものを道具化できるものはないだろうか。
今少しだけ読んでいる「他者のような自己自身」(ポール・リクール著 久米博訳 法政大学出版局)の中にそっくりありそうな…
これまで見てきたところ、ノヴァーリス自身の表現方法、かなり自ら汚しながら書き進めているように思われるのだが。
これも何かテクスト論とかにつながりそうな予感。それも「文体」が複数というのが特徴。これ、多くの人々が出てくる群像劇、都市小説、「ユリシーズ」のような実験小説と移行していく考え方。
物理学にとっての永久機関、化学にとっての万物溶解液及び賢者の石、哲学にとっての唯一の第一原理、数学にとっての円積問題及び基本方程式、人間にとっての神、医師にとっての霊薬、政治家にとっての完全(自由・平和)国家…
つねに失望させられて、そのたびに蘇る期待は「未来学」への一章へ、とのこと。
(2023 02/08)
一般草稿-百科全書学のための資料集(その2)
子音と母音とかわからないところも多いが、とりあえず「彼方への呼びかけ」というのは、この時代、カントやシェリングでも取り上げられるテーマ。
ここは、ミシェル・フーコーが「ビンズワンガー「夢と実存」の序文で引用している…この注では「ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ」に所収となっているが、その後、ちくま学芸文庫の「フーコーコレクション1」の冒頭に収録された(で、自分がちっともわからなかった(笑))。
この辺かなあ、パスが「弓と竪琴」で言っていたのは…
パルス、明滅、揺らぎ、その他が現代物理学の概念であるなら、ここのノヴァーリスの言葉もあながち間違ってはいないはず。心臓の脈動も世界リズムと同期するためだったりして…
(2023 02/09)
一般草稿-百科全書学のための資料集(その3)
目的を持たなければならないというところだけで一部からは批判もありそうだが、それも「未知の」である。そこで方法論及び試行錯誤がその「未知の目的」を援用しつつ探し求めることと絡んで事は進む。
この錯誤が「不可欠」だという論は、ここから先表現変えていろいろ出てくる。
ここも前に見た「他者のような自己自身」の先駆的箇所かも。でも言うは易し…だとは思う(特に後者)。
ピグミーというのは、特定の人々を指しているのでは(ここでは)なく、安易に進めないように考えようということ。
この裏返しとか、何かと何かの中間という位置の効用をノヴァーリスは利用する。
ここも中間主義? ここで出てくるプロティノス(新プラトン主義)は流出論など、ノヴァーリスは「私のために生まれてきた」とか言って一番のお気に入り。観念論と実在論の中間にいたのを、ノヴァーリスは「カントやフィヒテをも超える」と絶賛する。
ひょっとして、ナボコフここ読んだか…
寝る前少し読んで「一般草稿」は終了。
特に、ノヴァーリスの書くものにそれを強く感じる。詩は普段なら結びつかないものたちを結合し合う表現であると思うが、ノヴァーリスのここの文章は、一見そうした詩的な結びつきと思われるものが、ノヴァーリスとしては実に真面目な探求そのものになっている、というのが実に興味深い。
プルーストの花が全て性器に見えたというのも思い出す。ナボコフだけでなく、プルーストもノヴァーリスを読んで示唆する表現を作ったのかもしれない。それはともかく、思考(これに「器官」という言葉をつなげるのもノヴァーリスらしい)-生殖器-木に咲く花という秘密の連結がここに現れた。
(2023 02/10)
断章と研究(その1)
(2020 07/12)分再掲載、と追加分。再掲載分は今日読んだ分で終わり。[]内の数字は断章番号。
最初の[24]は、前半(「人間を見よ」まで)はちょっと違うのではと思えた箇所。というか「容量」とは何(他の断章でもその語使っていた)? 後半は何の尺度なのか意味不明…場合によったら興味深いのかも。
[35]は「想像の共同体」へのつながりと強い感情の危険性。
次の[43]はスクリャービンの色彩ピアノとかの先駆とそれからクンデラの文学と音楽の結合。ひょっとしたら一般相対性理論の先駆け?
次の[45]はドン・キホーテから現代小説までの、断片化され複数の物語が並走するような、それを導く断章。
存在するものが既に過去のものであるとする次の断章[65]。
最後の[113]は後にベンヤミンが「アレゴリーとバロック悲劇」で引用している(「ベンヤミンコレクション1」)。あと、断章[6](p302)とこの断章の最後の一文、唐突に出てくるけれど、ベンヤミンの「襞」やナボコフ「ディフェンス」の少年ルージンの隠れたところとか、いろいろ思い出す。
(2023 02/12)
断章と研究(その2)
[]内の数字は断章番号。
[505]断章付近の「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」関連。もともと感銘を受けたノヴァーリスであったが、徐々に批判的になっていく。「ポエジーの代わりに経済」とノヴァーリスは非難する。ただ、この先の断章では、自分の小説に比べ「マイスター」は「あの柔らかでまどかな息吹」がある、とも言っていて([537])、熱狂し過ぎて愛憎離れなくなった様子が見てとれる。
[579]…これもベンヤミンが「アレゴリーとバロック悲劇」で引用している(「ベンヤミンコレクション1」)ところ。布置によって業務関係書類も詩に代わるというのは、いかにもベンヤミン好みの断章。ノヴァーリスの「一般草稿」や「断章と研究」も、ベンヤミン「パサージュ論」などと同じく断章形式、かつ未完成(少なくとも建前上は)。ただパサージュ論の方は布置を考え、ノヴァーリスは思いつくままに書く(そのように見える)、その違いがある。
[601]ノヴァーリスの思想の突飛さに驚くが、「病気」とか「死んだ」とかで表されている向きが普通に思い描くのと反対になっている。ノヴァーリスにとって「病気」とはほぼ「熱狂」「発熱」と同じなのではないかと思う。「並行論」とは精神と自然などの間に、因果関係ではなく対応関係があるとする説。これに対して、スピノザは神の一元論(汎神論)をとった。
[607]「人格化」とは、上の「熱狂」「発熱」とはどう違うのか。ノヴァーリスにとってこの二つ軸は全くの別物と考えていたのか。それとも…
(2023 02/13)
少しは反論してみよう。相対する方に書かれたもろもろのものを引いたら、「自由」が存立する余地がないのではないか。人は錯覚無しで見ることはできないのではないか。
とも、思うけど、ノヴァーリスにとっての「自由」とはそういう現世的なものではないのだろう。
日記
婚約者ゾフィーの死後、一か月くらいの日記は「目標」、「決心」、「計画」などの語で示されている、ゾフィーのあとをおって自殺しようとする心理が書かれている。それが変わっていくのは、時間の経過とか、シェークスピアを読んだりとか、自身の哲学研究だったり、人との出会いだったりする。そして、五月十三日のゾフィーの墓の前での体験がある。ここが後に「夜の讃歌」の第三歌に取り入れられている。
これでなんとか読み終わり。
(2023 02/14)