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「ジンメルー生の形式」 北川東子

現代思想の冒険者たち  講談社

横浜、神奈川県歴史博品館隣の誠文堂書店で購入。

ザロッティとペータース


夜少しずつ読んでいるジンメルの本。ジンメルは1858年にベルリンに生まれる。父親はザロッティ商会というのを設立した実業家。ザロッティというチョコレートがドイツではよく知られている。その父親が早くして亡くなり、後見人にはペータース商会?の人が…こちらは楽譜の出版で知られている…まあ、大都会ベルリンで何不自由なく過ごしたというところらしい。家でピアノやバイオリンを弾いていた少年だったが、後年の彼の哲学の中での音楽の位置は必ずしも高くはない。
(2016 10/07)

ジンメルとフッサール


昨夜はジンメルの第1章残り。人間は確かに境界に形づけられた存在だけど、同時にそれを越えうる存在でもある、という。晩年の書簡が紹介されていたけど、フッサールとのやり取りが多かった。自分としてはちょっと意外?
(2016 10/15)

主人と奴隷の社会学

 都会人には、その逆が要求される。つまり、「もっとも適応力がある能力」である「知性」にもとづいて、外界を感覚することが要求される。外界とは、知的に操作された内的強制によって、「そう感じとられるべき」世界にすぎない。
(p79)


20世紀初頭のベルリン。様々な知覚要素の氾濫とテンポアップが通常の人間の認知能力を越えたと指摘。ところでジンメルは聴覚より視覚、通時的より共時的だという。

 ジンメル自身、このような肯定のなかの否定を、あるとき、ある女の姿で説明したことがある。つまり、頭と身体をあちらに向けていながらも、流し目をこちらへと送る女の姿である。
(p95ブロッホ「ジンメルの『おそらくは』の様態から)


おそらくは、という言葉がジンメル哲学によってよく使われる、という。そしてジンメルは女性という対象へと向かう。分節的ではない、一貫性の流れを持つ、他者。

 性差の歴史的な関係を先鋭化して主人と奴隷の関係として考えるならば、主人の原理というのは、自分が主人であることをつねに意識する必要はないということである。それにたいし、奴隷の立場は、自分が奴隷であることを決して忘れないということを結果する。
(p116『性差問題における相対的なものと絶対的なもの』)


こういう分析道具見つけると嬉しくなる。確かに自分が男性であると常には意識してない中で世界が普通に認識できる、と思っているからなあ。この主人と奴隷の図式はマイノリティとか他にもいろいろ使えそうだ。ジンメルの形式社会学(という言葉はこの本には出てこないが)らしい成果。
(2016 10/16)

ジンメルと相対性理論


ジンメル少し進めたら、なかなか重要なところに入った。1900年の「貨幣の哲学」。
なので、引用等はまた後からにして、とりあえずなところを。
これを書いた直後、ジンメルはアインシュタインの相対性理論と出会う。実体から始まる哲学は終焉し、相対的、ずれのずれの哲学が必要になってくる。そうした位置付けをされている。
著者北川氏は「貨幣の哲学」をこれまでの論文をパッチワーク的に散りばめた理論のある小説ではないか、という。
(2016 10/18)

ハイデガーとカッシッラー


ジンメルは「社会学」へ。ジンメル社会学の総決算的書物。この少し前にジンメルは一旦社会学から離れ、近代のテーゼであったカントに取り組む。自らの位置、現代を相対的な時代とする。
ジンメルもそうであった同化ユダヤ人にとって、カントそして新カント主義というのは、普遍的立場で多数派に対決できる拠り所であったらしい。

ジンメルからは離れるけれど、ハイデガーと同化ユダヤ人であったカッシッラーとの対談というか公開論争はそうした新カント主義が、ハイデガーの相対主義・歴史主義に押し切られたものだった。論争の内容的にも、場所的にも(ダヴォス)、自分にはトーマス・マンの「魔の山」のセテンブリーニとナフタの論争を思い出させる。
内容濃い…
(2016 10/20)

ジンメル、貨幣の哲学と無限の図式


というわけでこれまでの北川氏「ジンメル」のまとめ。

 全体が次第に部分へと「ずれていく」、そして部分がより細部へとさらに「ずれていく」。逆に、局所が全体へと「ずれこむ」。部分がどんどん全体に広がっていく、という無限の「ずれ」である。
(p147)


貨幣、価値の哲学。歴史的・発展の哲学ではなく、無限後退し担い手が無名化する哲学。ルーマンやブルデューの先駆的仕事である、と北川氏。

 因果性は、確かにミクロレベルでは機能する。しかし、因果の連鎖全体について因果性を問題にすることはできない。
(p140)

 全体にたいする認識の禁欲というべきか、認識の横暴にたいする抵抗というべきか。いずれにせよ、認識の働きは、ミクロレベルでの関係に限定される。
(p141)


なぜ、全体レベルでは因果性、認識が破綻するのか、それはA→B→C→D→Aという因果性の無限循環に陥ってしまうから。

 社会とは、とりあえず共有された空間のことであり、配分される空間、区分され配置される社会空間である。社会化の過程とは、したがって「社会分化」の過程である。
(p153)


ジンメルの「現代性」はここにも見ることができる。生没年がほぼ同じデュルケームが社会実在論に拘ったのとは対照的。

 他者についてのいっさいの言説が始まる前に、すでに他者は見える、聞こえる、そしてにおう。
あらゆる社会(人間)関係は、感覚的相互関係と認知的相互関係とのふたつの側面をもっている。
(p175)


「社会学」のなかの「感覚の社会学」から。藤田氏の感覚心理学のなかの仮説を思い出させる。
まあ、こんなところかな。とりあえず第7章まで読み進めている。

エッセイの思想


というわけで「ジンメル」残りから。

 形而上学の向かうところがひとつの体系的な内容に固定されることで、膨大な世界領域や心的な領域が、哲学による解釈と深化を受けることができないままに放置されてしまう。 
(p225)


この取り残されるものを掬い出す仕掛けがエッセイであり哲学的文化なのだ。「哲学的文化」の序の最後はイソップ童話から取られた畑の遺産の話で終わっているが、同じ童話を枕にして始まるのが、ベンヤミンの「経験の貧困」。この両者の間に横たわるのが第一次世界大戦。 
イソップ童話の比喩で、とにかく宝(真実とか)を信じて掘り進めという指摘があった。これは前に書いた因果性の無限後退を打ち破る方法論だろう。

次の俳優論からはジンメルの哲学の本質は装飾性にあるとしたところから。

 装飾が本当の意味で装飾であるのは、女性がいくつもの華麗な装飾を身につけていながらも、いっさいの装飾をのぞいてもなお美しいことがわかるときである。 
(p265)


ジンメルの哲学も、日常のありふれたものへ眼差しを向けさせるきっかけとなるもの。

最後はキーワード解説の「よそ者」から。こうした視点はグローバリゼーションによる世界の均一化が進む今日、新たな視座を与えてはくれないだろうか。

 社会のトータルな同質化や統合は、たやすく客観性を失い、思想的偏向や一面性によって危険な崩壊過程をたどる。「よそ者」的な視点による批判や、普遍性の名のもとでの吟味がないからである。ジンメルは、「よそ者」が社会に存在することの希望を語る。
(p278)


(2016 10/23)

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