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「ジャンケレヴィッチ 境界のラプソディー」 合田正人
みすず書房
読みかけの棚から
読みかけポイント:p112?まで
ジャンケレヴィッチの言葉より
かつていた者は、以後はもう〈いなかった〉ことにはなりえない。その後は、〈いた〉というこの謎めいて深く暗い事実が、永遠への旅路の路銀となるのである。
「還らぬ時と郷愁」より
(これってリルケの「ドゥイノの悲歌」からとったらしい。p24)
〈ひとはさまざまな思いを胸に国境を超えようとする。超えては捕われ、超えることに失敗しては連れ戻されながらも、再び越境を試みる。われわれの誰もがそのような密航者の末裔である。文化はいかに土着的なものであれ、すべからく密航者たちの遺産である。事実、途方に暮れたとき、ぼんやりと我が身を顧みるとき、われわれは、常日頃通る道路や自分の居場所が、ひいては自分の精神と身体、自分の存在そのものが数多の境界線に引き裂かれていることを感じ取る〉。
みすず書房の合田正人「ジャンケレヴィッチ 境界のラプソディー」の紹介HPの巻頭から。本のどこかに書いてあるものだとは思うけれど。
(実際はp18)
(2017 07/08)
ラプソディーと星座
真の哲学的問題はイロニーではなくフモールであるように今日私には思える。
屈辱を受け、侮辱された人々において、フモールを含んだ卑下は屈辱を乗り越えることを彼らに許容する。
(p25)
ラプソディーという言葉の語源は縫い合わせるということで、縫い合わせ=境界線、区別と普遍(最終章)というつながりの様子。
理念の事物に対する関係は、星座の星に対する関係に等しい。
(p101)ベンヤミンの言葉「ドイツ哀悼劇の根源」(1928)
「星座」の言葉で、多くの点(事象)から線で何かを種々選択して引き、星座を作る、そのやり方をベルクソン研究の折り、ジンメルとベンヤミンから学んだ…という辺り面白そう。
連続性とは無限の不連続性である。
(p90)
(2020 01/14)
ジャンケレヴィッチとその家族
書き出し(序章以外)はジャンケレヴィッチがイスラエルの海岸線で過去を回想するというシーンから、彼の生い立ち。
両親は両方ともロシア系ユダヤ人。両者ともフランスに渡り結婚する。姉?はピアニスト。姉の夫がスペイン系で、ジャンケレヴィッチの眼をロシア等東方から、スペインの西方へと変えていくきっかけとなったとある。父親は医者?かついろんな本の翻訳もしている。確かフロイト理論の紹介も。でもかなり翻訳には問題があるらしい。
ジャンケレヴィッチはロシアからの亡命哲学者の会にも、フランスパリの南西の十日会という会にも参加してた。そこから始まり、後のラジオ講演などでも、彼の講義の音楽的口調とそれに流されてしまいがちなのをいろんな人が証言してる。サイードなんかもそう。
(2020 01/17)
ブランシュヴィックの危惧
闇への愛着に我を失った神秘主義者たちを正道に戻らせ、ある方法にもとづいて彼らをその目的地に導くという役割に、スピノザは格好の人物であるように私には思えるのだ。
(p61)
ジャンケレヴィッチの師であるブランシュヴィックは、弟子の「夜想曲」を読んだ感想(危惧?)を弟子に伝える。ジャンケレヴィッチは生涯この言葉を忘れなかった、という。
ジャンケレヴィッチの思考はむしろ、連続的でもあれば不連続的でもあるような、そしてそのいずれでもないような生成変化に貫かれていた
(p67)
人間は単に生成のなかに存在するのではなく、それ自身がすべてこれ生成なのである。
(p67ー68)
何だか分からないもの
舞台でありかつ舞台装置でもある世界のなかで人間は変装している
(p72)
「フランス・バロック期の文学」ジャン・ルーセ
「何だか分からないもの」というジャンケレヴィッチのキーワードの一つが、バロック期の文学に現れ、それを彼が紹介したという指摘。上のp67の文の変奏。
グラシアンからパスカル、コルネイユ、ラ・ロシュフーコーへ、ショーペンハウアーからニーチェへ。ここに挙げられている人々(主に前半の)がこの考えに共通していたとルーセは言及している。そしてこれらの人々の多くは断章的な文学の作り手でもある(コルネイユは違うか)
(2020 01/30)
連続性と不連続性のあいだ
ある空間をわずかな時間で通り抜ける場合、そこに無数の部分があったとみなすのはたしかに困難である。しかし、この種の議論はわずかな時間のなかにも無限に多くの瞬間があることを看過している。ある空間の無限に多くの部分を、ある時間の無限に多くの部分と比較するなら、われわれを驚かす不釣り合いは消失するであろう。
(p90 パスカル「幾何学の精神について」から)
ジャンケレヴィッチ…無限性と有限性、連続性と不連続性のあいだ
ここで、前にも挙げたp90の命題が(後に)出てくる。再掲しよう…
連続性とは無限の不連続性である。
「飛躍の逆説」
現在に絶対的に先在するものであるにもかかわらず、過去は「それが現在であったそのときに構成されるのでなければ決して構成されない」
(p94)
現在への過去の内包を語りうるためには、継起の内在性にただちに一種の共存の内在性が付加されねばならない
(p96)
ここ、なんかわかりにくいけど、この本(中古で買った本)に先の持ち主が書き込んだ図がある。それによるとそれは、(集合のベン図)のように現在の一部分が過去なのが瞬時逆転し、過去の一部分が現在になる、ようなそういうものだという。
(2020 02/09)
ライプニッツ、ベルクソン、そしてジャンケレヴィッチ…
空間と時間について
空間は時間と同様に純粋に相対的な何かだと考えている。時間が継起の秩序であるのと同様に、空間は共存の秩序である、と
(ライプニッツの第三書簡から)
(p97)
ジャンケレヴィッチはこのライプニッツ定義の前半部分は取り入れるが、後半の空間に関しては修正して言い直している。
ジャンケレヴィッチにとっては、二つの内在性は、その各々が時間と空間の定義であるというよりもむしろ、相俟って「持続」を形成する「持続」の二つのアスペクトなのではなかろうか。
(p97)
空間や時間というものの定義が重要なのではなく、そういう「仮」のものを必要としてしまう、人間活動の特徴を捉えることこそ必要だということだろう。それはたぶんベルクソンを経由したからこそ。
秩序と無秩序について
神は秩序を外れるようなことは何もしないし、のみならず、規則的でないような出来事を仮構することさえできない
(p100)
無秩序はいまひとつの秩序である
(p100)
ライプニッツが気づいていたことだが、「無秩序」に並べられた点をひとつの曲線で結んで伏在する規則性を強調することができる。…塵のような星々のうちに、天文学者は星座を描き出してきた。未規定な気紛れからなる混沌のうちにも、われわれは精神の星座を見分ける。
(p101)
上から、ライプニッツ、ベルクソン、ジャンケレヴィッチの文章。
一番上のライプニッツについては、「神が仮構することすら出来ない」というのが自分的に興味あるところ。神にもできないことはあるのか。想定外ということがあるのか。一見完全秩序の決定論で不自由なような気もするのだけれど、そうではないことは、次のベルクソンやジャンケレヴィッチを見れば変容しながら定義し直しているのが見えてくる。
(ほんとかな)
再掲
理念の事物に対する関係は、星座の星に対する関係に等しい。
(p101)ベンヤミンの言葉「ドイツ哀悼劇の根源」(1928)
(2020 02/14)
持続と飛躍
昨日、前に読んだ「ジャンケレヴィッチ」のまとめの後、10ページほど読み進めた。持続のベルクソンと飛躍のキルケゴール、連続性と不連続性をどう接続するか、自由の問題にせよ、時間の問題にせよ、そこが一番の難問(アポリア)で、現代の哲学者はそこをどう取りまとめ、どう表現するか、のヴァリエーションではないか、とこの本見ると思えてくる。
(2020 02/15)
どこを見ても秩序や形式が根源的なものであるとは見えず、元来は無規則であったものが後で秩序づけられたかのように見える。これが万物において、実在性の不可解な根底を成すものであり、決して割り切れぬ残余であり、最大の努力をもってしても分解して悟性とすることができずにいる永遠に根底に残るものである。
(p112 シェリング「人間的自由の本質」)
(2020 02/19)