「チャパーエフと空虚」 ヴィクトル・ペレーヴィン
三浦岳 訳 群像社
チャパーエフと空虚
モンゴルの僧院で書かれというプロローグから、本文へ。書き出しはゾクゾクしていい感じ。ロシア革命時とソ連崩壊時、それを二重映しあるいは交差させて作品世界を作り上げていく、ようだ。チャパーエフというのは実在のロシア革命時の軍人。でも今のロシア人にとっては、熱血漢のイメージとしてアネクドートによく登場する、そういう人物…
もう一方の「空虚」とは…
なんだか作品冒頭から語り手あるいは焦点人物が、元友人?にゆすられてその友人を殺害する。誰もいない(なんだか接収された元貴族の家みたい)この友人の部屋にまだいる時に、誰か来訪者が…という場面でこの文章が出てくる。空虚(または虚無)という表現の、多分初出。この虚無空間がなんらかの節足点になるのであろう。
(2020 10/14)
上記p25のところから、なんだかよくわからない同志二人と、運転席だけ無蓋でずっと雪が積もりっぱなしの運転手とで場末の文学キャバレーへ行く。中では「罪と罰」のパロディ寸劇やっている。それが終わると語り手がステージへ。
ここで語り手は革命詩を朗読し、同志二人は銃撃し、雪の中待っていた運転手のとこに戻る。途中で語り手を除き降りて、向かった先は…
刑務所、あるいは精神病院…
というところで第2章へ(ちょっと筋書いておかないと見失ってしまう)。読んでいる最中は気づかなかったけれど、どうやら時代も飛び越えそこは1993年ソ連崩壊後らしいのだ。語り手はそこでチムール・チムーロヴィッチ(しかし、なんて名だ…)という医師?に面会し、変な薬打たれ、グループセラピーが始まる。グループといってもどうやら語り手内部に内包する様々な可能性の、いろいろな表出。
ここから、その可能性の一つ「ただのマリア」の筋が、活字も変えて割り込んでくる…の、手前で今日はストップ。
(2020 10/19)
マリアの夢(あるいは語り手の夢)から
ここでは語り手がベットに縛られているわけだが、ここまで直裁的に書かれると、ここから導き出される性的イメージが安易な落とし穴の一つなのではないだろうか。という気もしてくる。チムール・チムーロヴィッチもそんなこと言ってた。
あとは、この都市上空を飛翔するというシーンが、「巨匠とマルガリータ」でマルガリータが箒に乗ってモスクワを飛ぶのを想起した。これはたぶん作者も意識してるのでは、と思うのだが。
第3章
補足…フールマノフとは、小説「チャパーエフ」(1923)の作者。この戦記小説が評判となり、映画化までされた。第3章に出てくるアンナは、映画版のみのキャラクター。
東洋の刀身に映るレーニン(チェーホフ絡みのセリフを言う)。ロシア革命後の混乱の冬に、動員された民衆を前に演説するところの臨場感。そして、民衆の望むものをその空気から取り入れるチャパーエフ。ここでも、ちょっと前の箇所でも、個人内に閉じ籠もった自我なるものを否定し、相手と意識が流れ合う。
(2020 10/20)
第4章
ソ連崩壊直後編。奇数章がロシア革命時、偶数章がソ連崩壊直後、という割り振りなのか。
今度はアートセラピーなるもの。彼以外の三人の絵(マリアの絵は先述の飛行機の夢、他の絵もこの後の夢として出てくるみたい)の描写のあと、語り手…「空虚」という名前らしい…の絵に移る。
そして、彼はこの空に戦闘を描く。真空を嫌うのは真理だったか心理だったかなんだったか。空虚に耐えきれず何かを付け加えてしまうことが人間の歴史の歩みそのものなのではなかろうか。大半は陰惨な歩みとなってしまうけれど。
この章の最後は、アリストテレスの石膏の胸像で何度も殴られるところで終わる。実体というものを生み出したとか、ボリシェリズムの先祖であるとか、いろいろ言われてるけど…これも何かの鍵?プラトンの像だった場合では比較してどうなのか?
(2020 10/21)
第5章…ということは。ロシア革命後のターン。
となるとうわごとは、第4章の内容か。
チャパーエフと語り手との禅問答(公案)を通して。
(2020 10/22)
第6章、セルジュークの物語(と言っていいのかな)。
セルジュークというと、ロシアの名前というよりセルジューク朝とのイメージとのつながりが思い出される。けど、ここでの物語というか妄想は、日本の妙な商社…
「元の中庭」とは、この小説の場合、精神病院のことになるのか。この作品の粗筋的には(モンゴルの僧院で書かれたというはしがきを除くと)ソ連崩壊直後の精神病院から、チャパーエフの時代とか「ただのマリア」とか「タイラ商事のカワバタ」とかを夢見ている、ということになりそう…なんだけど、どういうわけか現実的なのはチャパーエフの時代で、精神病院他が夢見られているようなそういう気が、読んでいてしてくる。
持続の側に立つ時間と、そこから屹立している生との対比。次のp275の「固定的な核」云々のところは、落語「天狗裁き」の八五郎、またノーテボームの「これから話す物語」の語り手に、読ませたらどうだろう。
既に、第7章に入っている。
(2020 10/24)
現前化と第四の男
この作品でずっと追求されている「誰でもない、どこでもない、なにか」はこうしたところにあるのか。
ヴィジュアライゼーション…現前化?宗教で大勢の信者が祈りを捧げるとその対象が姿を現すこと。
第8章、ヴォロジンの章。
内面の(第7章では、ユンゲルン男爵が「内モンゴル」だと言っていた)そこにいる検事とか被告だとか弁護士だとかその他もろもろ、その誰でもない第四の男なるもの。
…引用したかったとこがまだ残っているような…
カラスと雪と多彩な色取り
第9章
これは先の「第四の男」と同一のものか。
p302に書いてあったこと、それからこの作品の構成全般に、この内容が絡んでくる。
小説「チャパーエフ」もこの「チャパーエフと空虚」もウラル川を渡ろうとして彼らは死ぬ。でも、70年以上を経て意味するところ、効果はまるで違っている。
(2020 10/25)
最終、第10章
枝から枝へと飛び移るカラスは、今までの夢から夢へと飛び移っていた語り手自身のようだ。では落とした雪とは何だろう。次の文ではその雪が、空虚な中庭に積もっていた。
空虚な中庭というのは、冒頭p25の空虚を思い出させる。
ここからの記述はその冒頭第1章に立ち戻っているかのようだ。文学キャバレーも、マルメラードフも、客の顔から一つの金貸しの老婆が合わさるところも。
最後は、チャパーエフとその装甲車が現れて、乗り込む。
先のカラスと雪のモノクロームの世界から、そこに到達する。物語が終わる。
(2020 10/26)
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