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「イブン・ジュバイルの旅行記」 イブン・ジュバイル

藤本勝次・池田修 訳  講談社学術文庫  講談社

航海へ

今日から標題の本を読み始めた。といっても今日のところはまだ航海のところ。ジュバイルはセウタからアレキサンドリアまでルーム人(ヨーロッパ人…ビザンツ系なのかな)の船に乗っている。やっぱり地中海を支配したとはいっても、実際に航海してたのはギリシャ系の人々だったのかも。
12世紀グラナダからメッカ巡礼に向かう。行きはアレキサンドリアからエジプトの砂漠を越え紅海へ。帰りは十字軍の時代のシリアを経由。彼の場合はバットゥータみたいに後世に一気に口述というわけではなく、日記形式らしい。毎日つけてたわけではないにせよ…
(2013 06/04)

イブン・ジュバイルのエジプト観光


イブン・ジュバイルの旅行記2日目(読んでいる方の日付)はエジプト観光? 
ムスリムである彼のマストであるモスクや廟はもとより、ナイロメーターやピラミッド・スフィンクス見物、土木工事にあたるルーム人まで。ピラミッドはこの時代にはイスラム初期の建造物だという説もあったらしく、ジュバイルがただの物見遊山気分で行ったのかどうか気になるところ。また、最後の例は啓典の民の信仰は保証するイスラム王朝下でも、実際には差があったことが記述からわかって興味深い。
(2013 06/05)

ナイル川から砂漠と紅海渡ってヒジャーズへ


イブン・ジュバイルの旅行記の今日読んだ行程はそんな感じ。
アレキサンドリア上陸時と同じくナイル川の旅でも荷物検査で権威を振りかざす役人に苦言を述べる。これなんかは発展途上国の入国検査なんかではまだあることなんだろうなあ。
ヒジャーズ(メッカ・メディナ地方)への行程では意外にも紅海を渡る方が辛くて危険だったらしい。砂漠の方は隊商道が整備されていて、何らかの事情で取り残された荷物もしっかり管理されていた、という。インドからの荷物もよく来ていて、胡椒などは有りすぎて砂より価値ないように思えてくるなんて感想書いてある。
まあ、こんなコース通るのもシナイ半島ルートが十字軍戦役で通行不可の為らしいけど、この道自体は残って、確かフロベールも類似のコース通ったんだよね(「フロベールのエジプト」)
紅海の航海、及びそのエジプト側港町については、またジュバイルの批判が止まらない…
なかなかに臨場感ある、この旅行記…
(2013 06/06)

花嫁の比喩の神殿


紅海を渡り終えたイブン・ジュバイルはジェッダからメッカへ。いよいよ巡礼の目的地。そこでまずカアバ神殿(黒い布をかけた四角い神殿)をぐるぐる回るのですが、そこの描写(と、言ってもいいものか…体験談としておいた方がいいかも)が非ムスリムにも感動的に伝わってくる。

 まさに生みたての鶏の卵のような思いもかけぬ素晴らしい夜、それは結婚初夜の花嫁、時世の乙女たちの中の処女の如き清浄な夜であった。…(中略)…われわれは神聖な家カアバが、至福の園へ巡礼者たちに取り囲まれて導かれてゆく、ベールをはずして姿を見せた花嫁であるのを見た。
(p93)


19世紀から20世紀初頭のフランス文学から…と言ってもいいような印象深い文章ですが、ひょっとしたら翻訳者の趣味も入っているのかな?入ってないのかな?
(2013 06/07)

メッカの雨


第2部のメッカの建物や聖所案内のところは正直よくわからなかったが、今日から入った第3部では、メッカへもたらされる果物の話とかメッカに雨降って巡礼者が喜んだ話とか今年はスリも警備が強化されていなくなったとの町民の話とか、わかりやすくなってきた(笑)。雨のところはやはり乾燥地域に住む人達の自然な感性なんだろうなあ…
(2013 06/11)

中世イスラムの女性論と群衆論


イブン・ジュバイルの旅行記、メッカ滞在の続き。普段は女性は退けられている神殿の特別参詣日の記述を見ると、ジュバイルがこれらの女性に対して同情の眼差しを注いでいることがわかる。これが当時のイスラム知識人の平均だったのかジュバイルだけ抜きんでいたのかはわからない。でも、まあ特別何か行動を起こしたわけでもないけれど…
一方、聖なる井戸の水位が上昇したというデマ?に惑わされる群衆に対しては、ジュバイルは批判的。これなど、かなり早い時期の群衆論ではあるまいか。でも、さっきの女性参詣日の後の神殿を清める水を集めて飲むという迷信?に対してはなんか同情もして、そういうのを批判する人を批判している…
(2013 06/13)

コーラン読誦と群衆の海


ラマダン月の最後の方の奇数日に行うコーラン読誦のところ。聖なる行事なんだろうけど、ジュバイルのフィルター通して見ると、なんだか各派のイマーム対抗の運動会とか学芸会みたいにも思えてきて、ほほえましい。
そんなに、人間の社会なんてどこでもいつでも真底は変わらないんだよね…人間ってヤツは…
(2013 06/14)

ジュバイル旅行記はいよいよメッカを離れメディナへ。イラクの巡礼団と同行したのですが、ここの群衆を海と見立てた描写の巧みさ。ひょっとしたら、ここは原文では韻文になってはしまいか…
(2013 06/16)

ジュバイルはメディナを出て、バクダードの近くのクーファ到着。意外にも水場には恵まれていたようだ。
(2013 06/19)

バクダードに到着…でも…


イブン・ジュバイルの旅行記はいよいよバクダード到着。クーファからバクダードへの道筋の農村は今のイラクからは考えられないくらいの平和な美しい光景(にジュバイルは書いている)。ただ、それに反転して、クーファやバクダードの都市は、周辺の民族の攻撃もあって廃墟の方が多い…という。この時代はカイロの方が中心だったのかな。
それよりまたまた、バクダードの住民に対するジュバイルの容赦ない批判が始まる…それまでの華やかな記述から一転するので、効果は絶大(笑)。
(2013 06/20)

バクダード滞在と出発。バクダードでは、イマームの説教を聞き、ここではバクダードの住民への反発から一転して感動してる。移動はだいたい夜から歩いて正午くらいまで、そのあとは午睡…というパターンだったらしい。
(2013 06/21)

ダマスクスのウマイヤモスク


アレッポを経てダマスクスへ。まずはダマスクスの会衆モスク(金曜日の集団礼拝するところをそう呼ぶ)の記述から。明言はされていないけど、これは今のウマイヤモスク。モザイクが美しかったり、元々教会と半々で使っていたのを、教会分のも取ってしまったり、といろいろ逸話のあるモスク。
続いて、アダムからイエス以後までの預言者が祈った洞窟とか、カインがアベルを殺した後、死体を引きずった為に赤くなった岩とか…まあ、ジュバイル自身も半信半疑なのか、インシャラー…いろいろ見る。
現時点でどういう状況になっているのか? とりあえずは平和を。

ジュバイルの苦笑、ジュバイルに苦笑


ダマスクス入ってだんだん面白くなってきたイブン・ジュバイルの旅行記。
十字軍戦火中でも、違う勢力圏に入る時は税金納めれば安全が保証されていたとか、それ以前にレバノン山中では住民とキリスト教あるいはイスラムの隠者の間では同じように尊敬されて扱われていたとか、ジュバイル流(マグリブの学生に対する)学問のすすめとか…

そんな中に、ダマスクスにある精神病棟の話がある。…もっとも原文になんと書いてあるかはわからないが…どうやら男色についての狂気であるみたいだし。そこでジュバイルが苦笑しているのは、相手の生徒の名前が出てくるところしかコーランを覚えてなかったこと(一応ですが、この名前が元々コーランにあった箇所から取ってきたもの)。
で、そんなジュバイルに苦笑したのはこんな箇所。

 …われわれは本来の話題と違う話に流れてしまった。話というものは次々と話題が飛ぶものである。神こそ真に助け給う保護者であり、このお方のほかに主はあらせられない。
(p379)


神こそ以降のところは、ジュバイルのみならず、ムスリムの慣用句(信仰告白)で、この旅行記でも隙あらば…という感じでよく出てくるのですが…でも、そこもか
さすが、インシャラーの土地柄…
以上、日本インシャラー推進委員会会長(1/3くらい真面目(笑))から。
(2013 06/25)

十字軍下の共存


ジュバイルの旅行記はダマスクス→アッカ→スール→アッカと巡り(スールでは適当な船が見つからなかった為アッカに戻っている)、アンダルスに戻る船に乗る。

で、ダマスクスを出てからはジュバイルにとっては異教徒の支配下である地域を通ることになる。でも、税金払えば安全は保証される。ジュバイルの記述からはこの時期のムスリム・キリスト教徒の共存の様子が具体的にわかって面白い。ジュバイルの記述は、キリスト教徒を単なる敵とは見ていないことが特筆すべきところ。ムスリムの地主よりキリスト教徒の地主の方が公平な仕事をするとか、キリスト教徒の結婚式に魅了されてたりとか…

また、ダマスクスでの「奇妙な仕草や言い方」をジュバイルが書いているところでは、この世界最古の都市であるダマスクスが、やっぱり古いということで、なんか日本における京都みたいな特性を持っていたのかな、と思ったり。
船はクレタ島を抜けたところだけど、また雲行きが怪しい…
(2013 06/27)

シチリア慕情


イブン・ジュバイルの旅行記は、さんざん嵐に翻弄された挙げ句、シチリアはメッシーナのすぐ近くで沈没寸前だったところをシチリア王ウィリアムに助け出されたところ。ちなみに11月くらい。ウィリアムがすぐ近くにいなかったら捕虜になっていただろうとジュバイル氏。

ここからジュバイルのこれまた貴重なノルマン王朝シチリアのムスリム側から見た記録が始まる。この時期の住民はまだかなりムスリムが多く、フトバ(支配者の名前を金曜礼拝で読み上げる)は禁じられていたものの金曜礼拝自身は行っていた。
王宮の侍女はキリスト教徒が新たに入ってきてもムスリムに改宗していた。逆にムスリムの高官がキリスト教徒に改宗した例もあり、この人物はイスラム法でもキリスト教徒の法でも裁判していた(彼は本当はムスリムの信仰を隠していた?)。ムスリムの家の娘を巡礼団の一人に嫁がせてここから逃れさせた。など、興味深い話満載。
ジュバイルもパレルモの例のモザイク教会には感動してるんだよね…
後、この時期、コンスタンティノープルにイスラム軍って入ったことありましたっけ?

ジュバイル、アンダルスに帰還する


ジュバイルの旅行記を読み終えた。トラパニからアンダルスへの船もなんか行きつ戻りつで、この当時の旅というのが本当に命がけだったんだな、ということがよくわかった。
…旅行記だから、着きました、ちゃんちゃん!でもまあいいけれど、ジュバイルの人となりにかなり興味を引かれてしまった自分としては、ちょっとくらい後日談というかエピローグ的なものも知りたかったなあ、と思う。解説にも帰ってからのジュバイルのことは一言も触れられていないので。酒を勧めてこの旅行のきっかけを作った太守とはどうなったのか、とか。
(2013 06/28)

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