「中世ヨーロッパの農村の生活」 ジョゼフ・ギース、フランシス・ギース
青島淑子 訳 講談社学術文庫 講談社
「村」の発明
舞台となるエルトン(当時はエセリントン?)は、ロンドンからだいたい北に100キロ。ピーターバラ州?の南にある。ラムジー修道院の荘園。初期の修道院の学生だったエセリックがデーン人貴族から一夜に金を用意させて村ごと購入し、後に修道院を訪れたとき寄進したという。エセリントンとはエセリックのリン(臣下・親類)のトン(村…元々は柵の意)という意味。
「村」が発明されたもの、新たに作り出されたもの、という知見自体が驚き。中世中期に至るまでの集落は、農奴を集めたプランテーション的なものとか、永続性がなかったとか、その他の場合は拡散して住み、多くても2、3家族の拡大家族的なものだという。イングランドで「村」ができたのは、ノルマン・コンクエスト以降とのこと。
あと、エルトン始め現存する村はほとんど中世の遺構は残っていないので、それを知るには廃村(主に近世の囲い込みで廃村となった)を研究するとのこと。こうした廃村で有名なのがワラム・パーシー(本のカバー写真が、このワラム・パーシー)。
イングランド農村の家屋
タキトゥスの「ゲルマニア」(岩波文庫に有り)には、ゲルマン人は(収穫という)秋を知らない、という印象的な基準の他に、二種類の住居について書いている。ロングハウス(バイヤーハウス)とサンクン・ハット(グルーベンハウス)。前者がp22に、後者がp19に写真がある。前者は、片隅に家畜、反対側に居住スペース、間に汚物を溜める溝…かなり臭いそうな…後者は竪穴式住居、13世紀にようやくクラック工法という湾曲した木材で屋根を支え空間を広くすることができ(p50に写真)、竪穴式住居は減少していく。
村の家は今のイングランド農村のように整然と並んでいるわけではなく、それぞれランダムに向いていた。そしてぬかるみもしくは砂ぼこり、家畜や農作業や家族の声などの音がやかましい世界だった、という(教会の説教の記録から)。
荘園制度の実態
13世紀は、以前のような他の領主などに運営を請け負わせる荘園は減り、直接経営が多くなる。これは収入(主に現金)が増加してきたことが背景としてある。
領主(不在領主)の代わりに経営する係官。執事、荘園差配人、農奴監督官。執事は領主の代わりに各荘園を巡回する。荘園に姿を見せるのは年に2、3回。その代わりに荘園自体にいたのが荘園差配人。この人がマナーハウスに住み、そこが荘園裁判所にもなった。その補佐が農奴監督官。これには「最高の農夫」がなる、と書いてあるけど、ここで(あるいはこの本全体で)いう「農奴」って、ここで(前と同じ)いう「保有農」というのとほぼ同じなのかな。とにかくこの人は実際に帳簿をつけていくのであるが、読み書きができないので棒とか使う、とあったが、それで務まったのかなあ。
(2021 12/19)
第4章「村人たち-その顔ぶれ」
前に「農奴」という表現について疑問書いておいたけれど、この章始めにそのこと書いてある。
続いて、荘園外に無断で出ている人に罰金を課している指摘。何をしに荘園外に出ているのかよくわからない(そっちの方が稼げる環境にあったのか)。あとはこういう罰金や細々した税などを払うのに現物(主に家畜など)で払っていたという。
都市と同じように、農村の役職も寡頭制で数家族で占められていた…のだが、一方で暴力沙汰や強奪やその他もろもろ、こういう裁判で出てくるのも多くはこの数家族の人々。この章最後には「同時期」ということで、「モンタイユー」を想起してた…
第5章「村人たち-その生活」冒頭は、こっちの本では久しぶりの「見たんかい」描写…
(2021 12/21)
第5章「村人たち-その生活」、第6章「結婚と家族」
第5章は昨日のうちに読み終えておいた。常に栄養不足だった(特にタンパク質と脂肪)貧しい農民を思い起こさせるような、アイルランドの詩人の夢の一節に「甘い牛乳の水面に浮かぶ、ラードで作られた」小舟(p141)というのが出てくる。あとは村の暴力行為。
第6章「結婚と家族」。
未亡人を相続人としてではなく、「生き残った共同借地人」として分割せずそのまま引き継ぐ場合が多かった。
農奴が娘(息子の場合は?)の結婚の時に領主に払う「承認税」と、農奴の息子が聖職者になるための教育を受けさせる場合に領主に払う「許可料」。のちのちにも、これらを払った事実がある場合は「農奴出身」であることがわかる、という証拠としてよく持ち出された。
結婚式を挙げない「非公式な結婚」もよくあって、のちのちよくトラブルになった。トレント公会議や宗教改革を経て結婚には証人が必要になり、この問題はやっと解消されていく。
年老いた親が息子へ世話をするのも、契約で案外細かく書かれている。しかし土地を持っていない老人は悲惨な死を迎えることが多かった。
第7章「働く農村」、第8章「教区」
始めの方。二圃式と三圃式。三圃式は土地を3つに分けて、休閑地、冬播き、春播き。二圃式は土地を2つに分けて、休閑地と作物(ここを更に半分にして、冬播き、春播き)。要するに三圃式の方が休閑地の割合が低く、13世紀になると三圃式にかなり移行する。
(2021 12/22)
上記続き。
この頃になると、農奴が近隣都市へ行き、一年と一日滞在して「都市は人を自由にする」で自由身分になる者も現れる。それには前提として、なんらかの技術が必要になった。一方、農村女性はとある研究者によると「同時期の貴族や都市の女性に比べると比較的農村の方が自由はあった」という。精神的面において。
第8章「教区」…教区教会というものができあがるのもこの頃。始めは教区と村の範囲も一致しないことが多かったが、やがて一村一教区になっていく。
その司祭は自分の農地を持っていたが、そこからどのように利益を得るかばかりに集中して、司祭の仕事をしていないという人もいたようだ。
(2021 12/23)
第9章「村の法廷」
いろんな争い事や決め事から、領主は様々な理由をつけて罰金というか手数料というかを取ろうとつけ狙っていた。
という前提のもとで。
一番上のは、おおらかなのか、善性説に立っているのか、聖遺物の威力をかっていたのか、ただの慣習の力か、どうなのだろう。
次の2つの文章は、領主の考えがどこにあったか(前に挙げた領主や修道院の耕地についての箇所もそういう思想がちらほら)よくわかる。下の文章の後には、自家製エール(ビールの初期的なもの?)の品質平均・向上という狙いもあったのでは、と書いてあるけど…そこまで言うのはどうか…と今は思う。
後半
…というか、まず書き忘れたことから。叫喚追跡の叫び声というのがある。襲われた当人や近くの人がこれを叫ぶと、それを聞いた人は行動を起こさないとその人も罪に問われた、という。ということは、ラタネの有名な実験(周りの人が多いほど、悲鳴を聞いても動かずにいることが多い)は中世では起こり得ない、言い方変えるとラタネ効果?をなくすためのシステムが中世には存在した、ということになる。
「聖域」に逃げ込んだあとの「A」の焼き印(ホーソーンか)と国外追放の港での過ごし方とか、絞首刑の執行は、被害者側自身が行うか、誰か執行人を探してくるかなどをしなければならない(というの何か前にも読んだ気が…「都市の生活」か…そして絞首刑が失敗する(死ななかった)というのも、それゆえにたまにあった、という)。
(2021 12/24)
第10章「過ぎゆく中世」
この時代以降の3つの流れ。穀物栽培から牧羊へ。領主が農地を請負させることの増加、領主の農地より保有農の農地が多くなる。
ワットタイラーの一揆、中心にいたのは実は富裕農。貧農の人頭税も肩代わりした人もいたという。
17世紀になると、生産量も増加し、工業で成り立つ村も出てくる。一方、囲い込みの影響で廃村になる村も出てくる。
(2021 12/25)