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「アブサロム、アブサロム!(上)」 ウィリアム・フォークナー

藤平育子 訳  岩波文庫


「アブサロム、アブサロム!」再読。フォークナーは一度じゃわからん(笑)。十年以上前、大橋吉之輔訳で読んだけど、ニューオリンズ出てきたのと、異母兄弟出てきて屋敷が燃えたことしか覚えてない…
さすがに?今回は(以前の「八月の光」の再読時と同じように、読みどころ満載。


第1章

ここでこれから展開される物語の7、8割は暗示されるので、濃密さは始めから…なので、引用パートは別項にして、ここでは第1章を読んだところで感じた二つの点を。
サトペンの二人の子供、ヘンリーとジュディスについて。物語の中心であるこの二人。こうして第1章読み終えてみると、結構いろんな違いが見え隠れ。サトペンの黒人奴隷(としておく)の馬車駆けや、同じく黒人奴隷の賭事取っ組み合いに興味津々なのは女の子のジュディス。男の子ヘンリーは取っ組み合いに吐いたりしている。そしてサトペンとの相似もジュディスに強調されている。この違い、あとで、ヘンリーとジュディスとボンの関係に大いに響きそう。
その二人の子供を守って欲しいと母のエレンから頼まれるのが、第1章(そして第5章)の語り手である妹(といっても25歳も違う)ローザ。このローザ、当時小さかったのに関わらず、「誰から守るの、自分たちからじゃないの」みたいなことを言う。予言するけど誰もそれを聞かないカサンドラに喩えられているローザ。それから60年くらい経ち、クェンティンに語る姿はずっと通している喪服姿。
他にも、いろいろなエピソードがつながる地下水脈の喩え(解説より)、サトペンとハイチとの関係、エレンとローザの父親の南北戦争を避け屋根裏部屋に閉じ籠り絶食して果てたことなど。


 クェンティンはそのような物語とともに成長してきたのだが、登場する名前はいつも取り替えられたし、しかもその数は限りなくあった。彼の子供時代はそのような名前に満ち満ちており、彼の身体そのものが、敗北者たちの名前が朗々と響きわたる、がらんとした広間であり、彼は一つの存在ではなく、一つの実体でもなく、一つの共和国だった。
(p26)


先程書いた水脈、波紋の繋がりを思い出すけど、こっちはなんか乾燥した感じでニュアンスは微妙に異なるのかな。


 (夢のことをー引用者注)本当のことだと信じさせるその特性自体が、すでに過ぎ去ってしかもまだ過ぎ去っていない時間というものを音楽や印刷された物語と同じほど完全に、形の上で認めて初めて成り立つものなのだ。
(p46)


この小説空間全体の説明のような…
この作品は1939年出版、語られている時点は1909~1910年。岩波文庫の藤平育子訳の新版。人物紹介と系図、章の概略、年表がついていてわかりやすい。原文イタリックの箇所は太字になっているけど、軽い太字?で、原文に近いイメージになっているのか。
(2017 05/05)

第2章


サトペン農園建設期の話が続いているが、ちょっと意外だったのは、フランス人建築家とサトペンの関係。たぶんハイチから連れてこられたと想定されるのだが、邸宅建設に関して大きな城みたいなものを考えていたサトペンに対し、自分の案で説得することに成功する。「征服」なんて大げさな言葉まで使われると、強引に自分の道を突き進む感のあるサトペンとこのフランス人建築家の関係をちょっと突き詰めたくなるのだが…
(2017 05/11)

第3章


背後の仮面劇


 ちょうどギリシャ悲劇の仮面のように、場面ごとに付け替えられるだけでなく、役者もが代わっても付け替えられ
(p116~117)


 その舞台を観客の前で演じているうちにも、自分の背後で運命が、宿命が、応報が、皮肉がーなんなら舞台監督が、と言ってもいいがーすでにその場面の舞台装置を取り外しにかかり、次の場面のために人工的に作った影や形を用意していた
(p143)


ギリシャ悲劇はカッサンドラとかクライティとかいう名前からみても意識されているのがわかる…特に上の文はこの小説の構成を示しているかのよう。後者は舞台監督とか人工的とかいうのが気になるところ。
(2017 05/22)


第4章



19世紀ニューオリンズの娼婦館


 田舎者のヘンリーは、足元で微かな潮流が動き出し、そこへ行ったら、自分自身と自分のこれまで受けてきた教育と考え方のすべてを裏切るか、それとも、すでに家も肉親も何もかも放棄して尽くしてきたこの友人を裏切るかのどちらかにならざるを得ない地点に向かって流れ出しているのを感じて当惑していた
(p206)


ボンとともに家を飛び出したヘンリーが、ニューオリンズに行ってボンと1/8黒人の娼婦?とその子供の姿を見る場面。潮流というのが実感近いなあ…
一方、この後続くボンの高級娼婦に対する考え方は、この時代の白人男性心性を炙り出している…のか、どうなのか。
(2017 05/28)

エレンが死んだところから。


 それは中身のない殻同然で、まったく重量がないので死んでも解体する心配のない影であり、埋葬されなくてはならない体はなく、あるのは、ただ形と思い出だけだったが、それがある静かな午後に、鐘も鳴らなければ棺台もなく、あの杉木立へと運ばれていって粉になり、その軽い亡骸の上に千ポンドもの重い大理石の墓碑が建てられたのはいかにも逆説めいた話だが…
(p227)


この辺りは昨日読んだ箇所。


 一塊の石ころは死んだり消えたりできませんから、かってあった、ことにはなれません、ですから今ある、こともできないのです
(p230)


ジュディスがクェンティンの祖母にボンからの手紙を持ってくる場面から。
第4章ラストはサトペン領地に住み着いたウォッシュというプアホワイトがローザの家に来て、ヘンリーがボンを撃ったことを知らせる場面なんだけど、このウォッシュという人物「フォークナー短編集」で出てきたのと同じ人物だよね。
(2017 05/31)

第5章


第5章の位置と意味ついて。ここは第1章に引き続いてローザの語りで、語っている時間軸からすれば、15234の順になるけど、語られている内容は総括的な第1章を除けばまあまあ続いている。ここをローザに語らせたかった理由があるのだろう。
それと関連していると思われるのが、この章が最後のページ意外全て太字(原文イタリック)になっているというところ。この辺の意味については読みながら考えていきたい。
(2017 06/01)


 わたしは地下に棲むあの眼の見えない魚のようなもので、どこから生まれたのかもはや覚えていないが、薄暗くて眠っている魚の体内で、「これが光と呼ばれるものだった」とか、あの「匂い」とか、あの「感触」とかいう以外に言葉を持たずに、大昔からの、眠ることなくただ疼いてきた疼きとともに、蜂の羽音とか鳥とか花の香りとか太陽とか愛とか与える名前さえも伝えられない、ほかの何かとともに脈打ち続けている、あの隔絶された火花のようなものでした。
(p266)


ローザ始めこうした隔絶されてきた南部女性たちの比喩・・・わからないところも多い(例えば「言葉」のところは、聖書の記述と絡めているのか、またこの時代の女性の低教育に絡めているのか)けど、なんだかひしひしと伝わってくる。
(2017 06/12)


上巻解説



人は、〈だから〉というより、〈にもかかわらず〉愛するものであり、その美点のためにではなく、欠点にもかかわらず愛するのだ、ということを作家は知っているからである
(p352自伝的エッセイ「ミシシッピ」から)


にもかかわらず…
作品最後のクェンティンの言葉と響き合うような…
(2017 06/16)


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