「バフチン以後 <ポリフォニー>としての小説」 デイヴィット・ロッジ
伊藤誓 訳 叢書・ウニベルシタス 法政大学出版局
阿佐ヶ谷銀星舎で購入
(2012 03/18)
序章
今日は序章と第1章。
まずは序章。
小説家と批評家の「二足の草鞋」を履くデイヴィット・ロッジは、一般読書大衆と学問的批評界の行き来、相互発展が見えなくなって来ている現在の状況に危機感を抱いているらしい。
p10にはヤコブソンの隠喩(メタファー 類似関係)と換喩(メトニミー 近接関係)の論理に影響されて、文学作品はこの2つの極を揺れ動くという指摘をしている(「現代文学の文章様式」)。ヤコブソン自身は、多くの失語症患者の観察から、この2つの機能について説明した。
これはバフチンの言葉から。まあ、他者達に語らせるだけ語らせるポリフォニー小説のことを言っているのだが、それを聴き取って再配列する者こそ「作者」というわけだ。ということで、ロッジはバルトの「作者の死」については批判的。
バフチンのお兄さん(ニコライ)についての簡単な概略も。白軍に参加したことからロシアにはいられなくなり、最終的にはイギリスで言語学教授となったらしい。とはいえ祖国を出なかったミハエル(バフチン)との交流(というか安否情報すら)はなかったという。ロッジはニコライの勤めていたバーミンガム大学の同じ学部に10年後配属になったということで、彼を知る人から話を聞けたらしい。
第1章「今日の小説 -理論と実践」
この章はレナード・デイヴィスの2つの論文への批評という面を持っている。このデイヴィスという人も面白そうなことを書く人だ。
「事実の虚構-イギリス小説の起源」では、デイヴィスは18世紀のイギリス作家(デフォーやリチャードソン辺り)は、ジャーナリズムに席を置き、自分は何かのニュースの編集者にすぎないという形で架空の小説を書いていたのだという指摘。いろいろ面白そうな議論になりそうな指摘だけど、ここでの争点は、小説というものは全て(いろんな形があり得るけれど)現実らしさを「装って」書かれるものだ、「現実らしさ」と「あくまで装っているのだ」というこの極の均衡をとることが小説作りという作業であろう。
こっちの論文はロッジも大方認めているが、次の「小説に抗して」という論文(作品?)には批判的。この作品はある小説中毒患者?が「小説を読むことは有害である」と論じるというもの。この意見がそのままデイヴィスのものなの?という素朴な疑問は置いとくとして(元を読むしかないから)、「意見」としてはなかなか面白いものを持っているのではないかな、と自分は思ってみたりもする。「そして小説の機能は、人間を現代社会の断片化と孤立化に適合する手助けをすることである」(p32)なんて、文明史、哲学、社会学とかいろいろ考えられそうな考え。ロッジが納得しないのは、デイヴィスが小説は変革を望まなくさせる、と考えている点。集団運動に小説は寄与しない、としている点。だが、ロッジは小説そのものが集団のポリフォニーであるとし、ここでバフチンが登場する。
と、ここだけで、デイヴィスとロッジの論点が全てわかるわけではないことに注意してまとめてみた。
次の文は、なんかロッジが注目しているロレンス、「ヤマアラシの死をめぐる省察」(1925)の中の「小説」というエッセーから。
雄ネコとかバナナの皮とかいう要素が、バフチンのいう「奪冠」につながるのでは、とロッジは述べている。バフチンがドストエフスキーで実証したことを、ロッジはロレンスでやってみたい(というかもう論じているらしい・・・)というわけだ。ロレンスって、なんかそういうのとは無縁な感じがしていた(もっともそんなに読んでないけど)けど、いろいろある(ロッジが挙げているのは「ミスター・ヌーン」と「迷える乙女」)んだなあ。
(2012 03/24)
第2章「現代小説におけるミメーシスとディエゲーシス」
ここは小説というジャンルが成立してからの文学史を(プラトン「国家」第3巻の)ミメーシスとディエゲーシスとのせめぎ合いという論点から論じている。決して「現代小説」だけではない。ミメーシスは、作中人物の対話や独白など(劇は全てミメーシスである)、一方ディエゲーシスは作者の説明、記述など。時代によりミメーシス寄りになったりディエゲーシス寄りになったりする。ジェームズ、コンラッドから始まりジョイス、ウルフで頂点を迎えるモダニズム小説はミメーシス(意識の流れなど)へ最大限寄り、ディエゲーシスを排除しようとした。が、グリーンやモーリャックなど辺りからディエゲーシスは排除できないのではないか?というポストモダニズム小説が出てくる。作者が小説にいきなり現れる現代小説特有と思われる手法も、ディエゲーシスの復活で、モダニズム以前にはよくあった手法なのだという。この意味でロッジはこのような小説を「リアリズム小説」とも呼ぶ。
個人的には、最初の方の「ラセラス」(1759)とフェイ・ウェルドンの「女友だち」(1975)の物語言説の要約的性質からくる語調の類似性がなかなか面白そう。あと、「ユリシーズ」のブルームの描写=内的独白のうちどこが内的独白でどこが自由間接話法なのかを分析しているところ(p61−62)も役にたちそう。
(2012 04/01)
補足:「グレアム・グリーン入門 特異な人間性と迫力に満ちた作品世界」 山形和美著より
デヴィッド・ロッジ「バフチン以後」との関連。
ミメーシスを極限に押し進めたモダニズムの小説は、最後に作者なるものは排除できず何かで置き換えるか作者を抑えるしかないと気づく。とそれに応じてポストモダニズムが、では積極的にどんどん?作者を作品世界に呼び戻そうとする。こういうディエゲーシス(作者の言葉の再導入)の様々な形態の中で、ミメーシスとディエゲーシスが均衡をとるようにした「保守形態」があって、それがグリーンやモーリアックの作品だと言っている…らしい(p145)
(2021 04/18)
第5章「現代小説のダイアローグ」
あれ、第3、4章まだだった(読んだと思っていたけれど…)。
とりあえず、第5章「現代小説のダイアローグ」
ここで取り上げられているのは、ジェイムズ、コンラッド 、ジョイス、、ウルフらのモダニストの次の世代のイギリス小説家。イーヴリン・ウォー、ヘンリー・グリーン、クリストファー・イシャウッド、アイヴィー・コンプトン=バーネット。
意識の流れをも持ち込むため、またこれらの作家の作品は句読点の付け方などにそれらが現れるように工夫しているという。
第3章「『ミドルマーチ』と古典的リアリズム小説の概念
バフチンのドストエフスキー論から。
バフチンのポリフォニー理論と並んで、この論集の度々出てくるテーマがミメーシスとディエゲーシス。第2章もそうだったが、この章も一作品中での両者の往復、そして歴史的にどちらか一方に収束するものではない。という論点を出す。p87の文で興味深いのは最後の文。読者に委ねられた領域が大きくなっていくことは、この章の後半、ロッジのいうフィッシュ効果(登場人物等の評価が、語り手の影響などにより読者中に揺れ動く)にも関連する。
(2023 07/09)
第4章「ロレンス、ドストエフスキー、バフチン」
ジョイスの作品についてのバフチン理論の応用(前にロッジは行ったことがあるという)に比べ、ロレンスについてはバフチンは程遠いと思われている。しかし、ロレンスにも有効であることを立証できれば、バフチン理論への信頼が高まる。という趣旨の論文であるが、その結果はどうだろう。バフチン理論の新たな応用というのでも、ロッジの着眼点がよかったというのでもなく、ロレンス作品にも結構型破りなものがあるという紹介になっている気がする。具体的には「恋する女たち」と「ミスター・ヌーン」。後者は未完となっているが、読者に語りかける語り手とかいろいろ喜劇的(邦訳があるのも驚きだが)。
さて、それとともに、というかそれ以上に自分的に引きたいのは、「退行した笑い」というバフチンの概念。小説内ポリフォニーを発見したドストエフスキーには、もう一方のバフチンの論点であるカーニヴァル的要素があまり見られない(とりあえず、ここではそういうことにしておく)。そこでバフチンは「退行した笑い」という概念を用いる。
「ドストエフスキーの詩学」から。何もポリフォニーとカーニヴァル双方をいつも伴わなくてもいい気がするのだが、それは一般論として、ドストエフスキーの小説は笑いもカーニヴァル要素も背景には存在していると個人的には思う(さっき保留しておいたところ)。だからドストエフスキーにおいてはポリフォニーとカーニヴァルは併存でいいけれど、ロレンスについては、併存しているのか、ロレンス体験が少ないから何も言えないけれど。
(読んだのは一昨日、昨日)
(2023 07/11)
第6章「バフチン以降」
標題論文?
ここでのロッジの一番の関心は、「もし言語というものが本来ダイアローグ的であるなら、どうしてモノローグ的な言説がありうるのか」(p163)、そもそも完全にモノローグ的言説などというものは存在し得ないのではないか、ということ。
書かれた言葉は話し言葉に比べ、モノローグ的言説であるという「幻想」を作り出しやすい。しかしロッジは例えば論文という高度にモノローグ的と思われがちな形式においても「内なる論争」に満ちているという。
以下は、文学批評において、一番「ダイアローグ的」なD・H・ロレンスの論文(『アメリカ古典文学研究』)。対話の相手はウォルター・ホイットマン。
バフチンもここでのテーマも抜きにして、単独でとても楽しい箇所。ロレンスは「チャタレイ夫人」が有名なのだろうけれど、サルデーニャなどの紀行とか、こういう評論をはみ出た評論とか様々な面を持つ人らしい…今年の自分の裏テーマはロレンス?
またテーマに戻る。これだから、小説というものを一括りで表現できなくて、わざわざそれを破壊するようなものが出てきて当然(というか必然)なのだ。
最後は、バフチンにきわめて近く、同時に正反対でもあるバルトとの対比。
関心の向け方が違う? バルトはテクストを読む時取り扱う時どう対処していくかについて、バフチンはそのテクストでなにができるのか、何をさせたいのかについて…
(2023 09/08)
第7章「初期ヴィクトリア朝小説における群衆と権力」
この「群衆と権力」というタイトルは、カネッティの「群衆と権力」から借りた、という。
なかなかに興味深く、どうして自分がこうした「群衆」が苦手かということも整理できる(人の垣根を壊されることへの恐怖)…カネッティもこうなると読みたいが、ル・ボンも似たようなこと言ってたような気も…
この章は、ヴィクトリア朝初期の小説における群衆の描き方が、その前の世紀のフランス革命を紹介したトマス・カーライルの「フランス革命」から派生しているという趣旨。冒頭で紹介していたギャスケル夫人の「北と南」やディケンズの「バーナビー・ラッジ」や「二都物語」などが例として挙げられている。一方、唯一群衆を規律的に描いているのが、1736年のエディンバラで起こったポーティアス暴動を描いたウォルター・スコットの「ミドロジアンの心臓」。この作品においては、作者スコット自身の政治見解よりも進歩的な見方がされている。
フランス革命以来、群衆が権力を持つという思想が新しく起こり、それらが初期ヴィクトリア朝小説に強い影響を与えた。その後、その評価は転回されることはあるのだろうか。
(2023 10/25)
第8章「構成、分配、配列-ジェイン・オースティンの小説における形式と構造」
(ジェインなのかジェーンなのか問題(笑))
リチャードソンの「書簡体小説」を、オースティンの文学的叙述の精緻化によって廃れさせるという趣旨。
前の章でも出てきたかもしれないディエゲーシスとミメーシス。たぶんこの本全体を貫くテーマの一つだけど、まだ自分はごっちゃになってしまう傾向が…とりあえず、自分が小説読んで引用しやすいのはディエゲーシス(笑)。だから、オースティンがミメーシスというのもよくわかる(前読んだ時ほとんど引用しなかった)。先に挙げたリチャードソンの場合は、ミメーシスがちょっとだけディエゲーシスに傾いた、と言っていいのか(書簡という、書くというちょっと間が開く形式によって)。
p217の「マンスフィールド・パーク」での、劇のリハーサルをしている屋敷に、当の屋敷の主人(だよね)が西インド諸島から不意に戻ってきて、そうとも知らずに劇の中に入ってくる、という場面が興味深い。劇と散文の境界線。これ読んでみたい。
オースティンと言えば「自由間接話法」らしい(笑)。先のリチャードソンより更にディエゲーシス要素を入れ込んだとも言える。今時点では小説の当たり前の手法・文体と見られるけれど、その発端はやはり革新的なものだった。そしてそれが含みもつ可能性はかなり深く、今も例えばリョサなどの小説によって沃野が広がっている…ということで、自由間接話法自体の歴史の著作とかないかな。かなり気になってきた…
「エマ」では「作者的語り手が、信頼できない焦点的人物を通して実質的にすべての出来事を伝えている」(p230)-こうした前例は存在しないとロッジは言う。そして「ヘンリー・ジェイムズの言うところの実感される人生という感触-小説の言説と人間の意識の過程との間の親密な関係-が強められる」(p230-231)。引用しといて、まだピンと来ていないのだが、これをオースティンの次にやり遂げたのが他ならぬジェイムズなのだ、というのがロッジの評。
以下はヘンリー・ジェイムズの言葉。
(このジェイムズの言葉は「虚構の家」(邦訳無し?)にあるらしい)
というわけで、次の章はヘンリー・ジェイムズ。
おまけ
解説より。第三評論集「現代文学の文章様式」では、ジョイス、ロレンス、ウルフなどのモダニズムの作家が隠喩を使い、その後のイシャウッド、オーウェル、グリーンなどのアンチモダニズムの作家が換喩をを使うことに思い当たった。そこでヤコブソンの「言語の二つのアスペクトと失語症の二つのタイプ」(たぶん、「ヤコブソンセレクション」の第3章と同じだろう)を読んで「啓示」に打たれ、この論文の二つのタイプを、モダニズムとアンチモダニズムに当てはめ、更に文学様式類型論確立の可能性を示唆している。
(2023 10/29)
第9章「曖昧さの芸術-『ポイントンの蒐集品』
論の最初の2ページは、ヘンリー・ジェイムズの劇作失敗の様子。前に読んだ「ヘンリー・ジェイムズ傑作選」の解説にもあったが、その少しだけ詳しい内容が書いてある。
この小説のテーマ…というより、ヘンリー・ジェイムズの作品を通した根源には、人間のある行為や体験は決して単一の「真相」にたどり着くことはないというテーマがあるという。それはとかく「真相」を見つけたがる批評家そのものにも言えることだとも言う。
(2023 11/02)
1か月間が開いたので、読み直し。
「デイジー・ミラー」、「ある婦人の肖像」、「メイジーの知ったこと」、「厄介な年頃」、そしてこの「ポイントンの蒐集品」など。
この小説、ジェイムズは最初「物」を中心に据えて書こうとしていたらしい。その痕跡が作中いろいろな箇所で見られるという。そして結末、蒐集品のある屋敷が女中の不注意で全焼してしまうのは、果たしてどんな含意があると読み取るか。ここだけでなく全般にわたって解釈も浮遊する(自分的には(って作品読んでないのだが)「フリーダに断念の意味を最終的に痛切に自覚させる」(p252)っていう解釈が良さげだが…実際に作品読んだらどう変わるのか?)。
第10章「現代的物語叙述における不確定性-「バサースト夫人」を読み解く」」
ラドヤド・キプリング(1865-1936)
「入れ子」のところには「チャイニーズ・ボックス」のルビが振ってある(だから「最後の箱」)。自分的に気になるのは、これら枠の登場人物たちが、語り手にも聴き手にもなっているという箇所。枠物語の場合、外枠の語り手が内枠の聴き手になるが、その内枠の語り手がまたその内部の枠の聴き手になる…それとも同時にその語りの場にいるのか…そんな気配もする(これも作品読んでないので不明)。
キプリングはこの小説で、ボーア戦争のニュース映画を取り入れている。ヴィカリーはこのニュース映画を見ている時に、バサースト夫人をその映画の中に見つける。
画面の中で歩いているバサースト夫人は、やがて画面の外に歩いて消えてしまう。枠から消えるこの効果を、後にヴィカリー自身がパイクロフトの視界(知覚の枠)から出ていくことで後追いすることになる。枠、境界(陸と海、線路と船)などの等価的隠喩的技法(p272)。
第11章「ミラン・クンデラと現代批評における作者概念」
やっと、読んでいる作品来た(いや、「冗談」は読んでない)。意外なことに、イギリスではクンデラの評価は遅れた、という(ロッジによれば「まずい翻訳」によるらしいが)。というわけで、まずは「冗談」。
その「意味」がもっと包括的な「冗談」であるとするならば…
続いて「笑いと忘却の書」(こちらは読んだ)。ロッジはこの小説はポストモダンの小説の傑作のひとつ、という(もうひとつの傑作はカート・ヴォネガット「屠殺場五号」…なんだこれ「スローターハウス5」のことだった…)。クンデラに戻って、第3部「天使」から。
ポール・エリュアールに率いられた輪舞。彼らが輪舞しながら空中に高く上っていくのと同時に、語り手は落下していく。ここはマルケス、グラス、ラシュディ…とともにマジック・リアリズムの描写だとされる…自分はあまりクンデラとマジック・リアリズムを結びつけていなかった…
ポール・エリュアールは、アンドレ・ブルトンからザヴィス・カランドラ(チェコのシュールレアリスト)処刑に抗議するように要請した。しかしエリュアールは要請を拒否して、「輪舞」に加わった…という背景。
しかし、それはいいのだが、バルトの「作者の死」概念に対するロッジの「作者概念擁護」(それ自体はいいのだが)とクンデラの作品批評が全く別物のように見える…何か読み足りない?
(2023 12/09)
第12章「ダブル・バインドで読み悶える」
昨夜寝る前に、第12章「ダブル・バインドで読み悶える」を読む。これは割と短く、何かの本の書評に近く、書評されている本も何かのパロディで、かつ書いているロッジの方も、書評の書評、あるいはレムばりに架空の書物の書評か、と疑うほどのわけのわからなさ。その中で「ダブル・バインドで消えかかっているのは、小説ではなく文学批評の方だ」というのが根幹にある。ダブル・バインド(二重拘束)とは、相反する主張・命令を一身に受けている状態。
(2023 12/11)
第13章「ひとつのビジネス-アメリカにおける学者批評家」
こちらも本の書評。こちらはイムレ・サルジンスキーという人の「社会における批評」という、アメリカの批評家についてのインタビュー集。アメリカ在住のサイードやデリダ、フライなどを含む。
ロッジが皮肉混じりに述べているところによると、こうしたアメリカの「スター批評家」制はイギリスにはまるでなく、長所・短所を抹消し、仕事は分配される(もっとも今は分配される仕事もない?)。
ロッジがこの本に向ける批判は、インタビューという形式を使用している文学批評の本なのにインタビューという形式の検証がない、インタビュー相手のうち女性は一人(よってフェニミズム批評も十分に取り上げられず)など。一方面白い特徴として、インタビューの相手にこれまでしてきたインタビューの内容を見せてから始めるとか、それぞれにウォレス・スティーヴンズの「ものにまつわる思想ではなく、ものそのもの」という詩を批評してもらう…その結果大部分の批評家がスティーヴンズに傾倒している(唯一の例外はサイード)とのこと(スティーヴンズってこの間「ヤコブソン・セレクション」で出てきた詩人?)。最後はヒリス・ミラー(反復の人?)でこの論評はロッジも認める「完膚なきまでの読みでうすら寒くなる」ほどだという。
最後に一つ引用。レントリッキアという批評家のインタビューから。
ただ、このおかげでレントリッキアが(貧しいイタリア移民の子であるのに関わらず)「スター批評家」の一員になれた、とも少しは言えそうだ。
(2023 12/12)
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