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「死者の百科事典」 ダニロ・キシュ

山崎佳代子 訳  海外文学セレクション  東京創元社


「未知を映す鏡」


河出文庫の「東欧怪談集」とダブりがあって、「見知らぬ人の鏡」(栗原成郎訳)-「未知を映す鏡」(山崎佳代子訳)。こっちの方が新しそう。
というわけで、この短編、山崎訳ヴァージョンで昨夜寝る前に読んでみた。

 そういうわけで、今朝早く、夜明け前に、旅立ったときのあの歓声や歓喜はない。人生の大きな節目を示す時ごとに子供の心を満たすあの喜びはない。二人には人知れぬ悲しみだけが残り、秘密のように、それぞれが自分の胸に秘めていた。毎日も続いた喜びと感激の後では、そして、突然、取り返しのつかない失望を味わったことを互いに認め合うのが恥ずかしかった。とうとうその日が来たというので、興奮のあまり心臓が飛び出しそうなくらいだった今日という日の朝の後では。
(p96)


何があったのかというと、この日、ここに描かれた姉妹は、これから通う女学校と下宿先の部屋を父親に連れられて見に行ったのだ。そしたら、想像ほどではなかった、と。キシュ読むのかなり久しぶりだけど、こういうのを書くのが巧そう。
もっとも、この短編の主筋はそこではなく、この姉妹のさらに妹(彼女は留守番)が、前に買ってもらった手鏡を野原で見た(実際には夢の中なのだが)ら、父親と姉妹が乗った帰りの馬車を強盗が襲って皆殺しにされてしまう場面が映った、というもの。
実際は妹は手鏡持って家のベッドで寝ていた。母親と妹は村長の家に向かうが、心の病気ということにされる。ただ、妹が見たのは実際に起こったことだった。

この「死者の百科事典」という短編集、どれも違った時代とスタイル(エクリチュール)で書かれているという。そうしてみた時、この「未知を映す鏡」で採用されているのは新聞の書き方、そして新聞を引用した記事の書き方。結末を「アラディ・ナプロウ」紙1858年に掲載されている、としている。先程出てきた村長はこの新聞の購読者でもあったという。
ついでにもうちょっと飛躍解釈。母親と妹が村長のところへ行く場面から新聞記事に移る感覚が、妹が(夢の中で)手鏡を見る時の場面転換の感覚に似ている。この短編はその感覚で貫かれていると言いたいくらい。もう少し飛躍すると、この手鏡、新聞というジャーナリズム、気軽にオンオフして見られる映像…ということで、テレビの象徴…?
(1858年くらいの(今で言う)ハンガリー-セルビア国境付近の新聞の普及状況というのも調べてみたいものだけど)
(2023 09/19)

「死者の百科事典」


(ひょっとして読むの3度目?)
タイトル作の「死者の百科事典」は、世界各地で死んだ無名の人の全てが記載されている。ストックホルムの王立図書館の地階にある…との設定だが、アメリカ・ソルトレイクシティには似たような感じの作成団体がいる模様。
それで、読んでみると図書館とか死者の書とかいうよりも、そういう体にした一人の男(語り手の父)の記憶という印象が今回は強い。結局、この図書館も死者の書も語り手の夢であったわけだが、夢ではこうした無限が許されうる場となる。

 人間の歴史には何ひとつ繰り返されるものはない、一見同じに見えるものも、せいぜい似ているかどうか、人はだれしも自分自身の星で、すべてはいつでも起きることで二度と起きないことなのです。
(p49)


キシュが作家として大切にしてるのもそれだろう。似てはいるけれど、全く同じではない、「個」の唯一性。
次の文は少し細かいところ。

 虫眼鏡を通して切手を見るのは、もの静かで落ち着いた人々、旅行や冒険がそれほど好きでない人々の内部にしばしば隠れている抑制された空想の一部にすぎないということを。
(p58)


じわーと来る、読んでいてよかったなと思える文章。
この父はトリエステへの旅行の時に花の種買ってきたことから、晩年は花の絵をあちらこちらに描き始める。語り手は夢から覚める間際に百科事典の項最後の「父の花の絵の基本図」というものを見る。それは父の描いていた花の絵に全く似てないのだが、実はその頃から父の身体内部に咲き始めた「花」、腫瘍に語り手が見た「基本図」はそっくりだったと医師に告げられる。
という印象的な結末なのだが、実はこう書いている作家キシュもこの数年後腫瘍が発見された…という。
(2023 09/21)

「赤いレーニン切手」、「師匠と弟子の話」

金曜日夜に「赤いレーニン切手」、昨夜…というか今朝未明の2時に「師匠と弟子の話」と短めの2編。
どちらも、前の2編「未知を映す鏡」、「死者の百科事典」のようにすんなり?面白かった、とは言えない話。
普通に?読んでいけば、「赤いレーニン切手」では語り手(書簡なので書き手)の女性に(訳者解説でもその読み方)、「師匠と弟子の話」では師匠の方に、作者の好意が向けられているように思える。だけど、自分としては、前者ではさんざんけなされている精神分析解釈をするスワンソン女史に、後者では弟子に、引き寄せられる。というか、どちらか一方だけに寄っては危ないように思える。だからこそ、キシュは文学研究者に宛てた書簡とか、ユダヤ文学における文学論と道徳論とか、そういう外部設定をこの短編集で示したのだろう、と今は考えておく。まだ全く定まっていないが…

「魔術師シモン」、「死後の栄誉」

今日はそのあと、「魔術師シモン」と「死後の栄誉」を読む。
前者はイエス死後の使徒たちによる布教と、それに対する「魔術師シモン」との対決。天上に登るパターンと地中に埋めて腐らないかをみるパターンが並列されている。どちらも最終的には使徒(ペテロ)が勝つが、作者キシュの心情はシモンの側にあるように見える。これも上で挙げた2作品と同様に、作品内の構造はきれいな二分法なのだが、そうと割り切らないところに立ち位置があるのではと思える。

 そこで手を天に差しのべると、幅の広い袖はずり落ち幾重にも襞をつくり、そこから美しい白い腕と細い指が現われた、怠け者や手品師にしか見られぬような。
(p7)


これはまだ序盤の方。怠け者と手品師が並列になっているところが愉しい。この文章だけみるとシモンを批判しているようにみえるが、一方の使徒側も賄賂とか破門とか批判的な言葉が続く。あと特筆すべきは、紀元後直後のこの地域の雰囲気が、ほとんど前提知識のない自分のような人にも伝わってくるところ(このシモンの話、元ネタがたぶんあるのだろう)。

後者は時代を大幅に降って、20世紀始めのハンブルク。労働者革命を起こそうとした革命家と、飾り窓の娼婦。この娼婦が肺炎で急死したあとの、葬儀で起こったハンブルク市内の各地での花の切取り。それは娼婦に捧げられた…続けて読んだので、なんかこの作品は「魔術師シモン」の現代版かと思ってしまうほどだった…娼婦はどちらも出てくるが…

 理性では推し量れぬ夢や幻想を秘め、矛盾に満ちた現実という混沌をありのまま映し出す不思議な鏡、それがキシュの文学だ。
(p187)


訳者山崎佳代子のあとがきから。これまで読んできた4作品にあるもやもやしたものを、この文章で宙吊りにしておこう?
(2023 09/24)

「眠れる者たちの伝説」、「祖国のために死ぬことは名誉」、「王と愚者の書」と、著者・訳者あとがき

「眠れる者たちの伝説」(日曜日)、「祖国のために死ぬことは名誉」(月曜日)、「王と愚者の書」(月曜日から今朝)…と読んで、一回ざっと読んだ著書あとがきのような「ポスト・スクリプトゥム」も訳者あとがきも読んで終了。
「眠れる者たちの伝説」は読んでいるこっちも半分は「眠れる者」状態だったので(笑)よく理解できてない。コーランにあるエフェソス近くの洞窟にキリスト教弾圧が解けるまで睡眠状態でいた人達の話。寝ている状態と起きて町の人々に担ぎ出されている状態が交互になっているような。

「祖国のために死ぬことは名誉」は、ハンガリーのエステルハージ家(また出た(笑)…ハイドン招いたり、ポストモダン作家生み出しているハンガリー名家)の若者が、民衆反乱に加担して処刑される。結末、若者が黙然と死を受け入れた、その解釈は二通り…

 歴史は勝者が書く。伝承は民衆が紡ぎ出す。文学者たちは空想する。確かなものは、死だけである。
(p119)


「王と愚者の書」は、「眠れる者たちの伝説」より苦戦して3日がかり。いわゆる「陰謀論」的テクストがどう形成されたかという紆余曲折。

 この本は黴臭く、その黄ばんだページには、他のどの本よりもずっと年代の湿気が染み込んでいる。それはもはや埃ですらなく、忘却の粉、忘却の灰、死せる思想の灰なのだ。
(p144)


そういえば、キシュの作品には「庭、灰」というのもあるが、テーマ的に関連あるのかな。
作品最後に出てくる「不幸なクルト・ゲルシュタイン」という人も気になる。この人、「ポスト・スクリプトゥム」によれば、ナチスに反抗するために敢えてナチス親衛隊に入ったという人物。最後はフランス軍に捕まり刑務所で自殺。
これも「ポスト・スクリプトゥム」によれば、この「王と愚者の書」は元々は随筆形式で書かれたが、書いていくうちに虚構作品に変容していく。

 そのとき、僕は安心して題名を「覚書」から「謀略」に変更したのだ。この物語はぎりぎりの事実から始まり-事実を完全には裏切ることなく-、まさに資料が乏しく、事実が知られていないところ、つまり事物の影や形が歪んで見える薄暗がりで、展開しはじめた。
(p181)


登場人物でいえば、ベロゴルツェフやX氏という辺り…キシュの作品はどれも「事実を完全に裏切る」ことを拒否している。「死者の百科事典」も主眼は図書館の幻想ではなく、そこで語られる死者の人生。
なかなかに手応えあって、一筋縄ではいかない。そのため、自分の中での作家キシュ像が揺れ動いているので、では「庭、灰」(1965)、「若き日の哀しみ」(1969)、「砂時計」(1972)の三部作も行くか…
(2023 09/27)

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