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「どこでもないところからの眺め」 トマス・ネーゲル
中村昇・山田雅大・岡山敬二・斎藤宜之・新海太郎・鈴木保早 訳 春秋社
読みかけの棚から
読みかけポイント:解説を少し。
図書館でトマス・ネーゲルの本を借りる。
「コウモリであるとはどのようなことか」
「どこでもないところからの眺め」
(どっちかに絞りきれなかった・・・)
われわれは各々、自分自身の人生を生きているー一日二十四時間、自分自身とともに生きている。他のどんなことをしていると考えられようか・・・(中略)・・・(だが)自分自身と自分が従事している人生とを、一歩退いて眺めることができるのである・・・(中略)・・・その眺めかたが人を落ち着かせ、彼の笑いを誘う。
(p24)
「コウモリであるとはどのようなことか」の第2章から読んでみた。そこからの引用。言うまでもなくこの「眺め」が「どこでもないとこらからの眺め」に続いていく。
(2015 01/04)
ネーゲル「どこからでもないところからの眺め」。主観性と客観性について、心についての形而上学(自己同一性とか)、認識論、自由意思、倫理の4つの論点から論じる。その他にも時間・空間論、言語哲学、美学等々でもこの主観・客観の図式は重要だとネーゲルは言う。この2つはどちらかが重要とかどちらかがもう一方を含むとかではなく、前少し見た超整合理論みたいにどこまでも複合していくみたいに考えているようだ。
思考は、根拠に基づいて自分の見解や行動を決めようとするものであり、(ここでは…引用者注)規範的事実の存在に懐疑を抱く限り、思考には取り組めない。思考することは、懐疑を捨てることを要請する。
(p418)
解説から。こっちの訳者は6人。カントからキルケゴール、ベルクソン、ホワイトヘッドまで、専門も多様。
(2015 01/17)