「定本想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行」 ベネディクト・アンダーソン
白石隆・白石さや 訳 社会科学の冒険 書籍工房早山
想像の共同体
今日から「想像の共同体」ベネディクト著を。国民とは想像・創造されたものであると同時に忘却の結果でもあるとか、国民概念は神経症と同じで病巣のようなものであるとか(これらはベネディクトが他の本から引いたもの)いろいろ面白そうなこと書いてあるが、まずは通して見てみたい疑問二つ。国民と民族の概念の関係と違い、国民と社会(他に例を挙げている階級とかも)の概念の関係と違い。アンダーソンのフィールド、ジャワ語では社会という概念はなかったと書いてあったけど、では世間概念はあったのかな。
(2013 04/18)
時間の同時性と均質性
「想像の共同体」今日は時間概念のところを少し。中世の時間概念は近代以降とは違っていたらしい…
中世の教会のステンドグラス等には聖書の物語が造られた時点の(つまり中世の)衣装などで描かれている、という。つまり、この時代には聖書の物語は千年くらい前の話としては理解されてなくて、今も起こりつつあることだったのである。特に民衆レベルでは。
とにかく、中世以前というか17世紀くらいまで?は、宗教共同体・聖典の言語(ラテン語、アラビア語等々)・そして王国(血筋)が、現在のナショナリズムの位置を占めていた(ベネディクトは「とって変わったわけではない」と安易な図式化を戒めている)。それがそれからどうなったのか、ナショナリズム装置として働いた、小説と新聞が示している…
(2013 04/19)
今日読んだ「想像の共同体」から興味深いページを。
p62では新聞が毎朝執り行っている「儀式」(へーゲルの指摘らしい)について。p66では(注の10)中世の文盲の民衆の「読む」ことについて…これは前回の聖典の時間との同時性と関わりがある。p82では資本主義が勝てない二つの「敵」…死と言語(の多様性)について。死に対してはまあ無理そうだけど、言語に対してはどうか、そう楽観?もできるのか。
続いての章ではこの本の重要なキーワードの一つ「世俗的巡礼」が出てくる。よく理解できてないところもあるけど、近代の旅(ってか、一般的にいえば移動)の理由を問うた時、その前にやってたことになぞらえて理解しようとしていた(さっきのへーゲルの指摘もそうか)ということかな。
(2013 04/20)
近代ナショナリズム成立の見取り図
「想像の共同体」から標題の大雑把なまとめを。出版と資本主義と空間・時間の均一性により近代ナショナリズムが少しずつ出てくる。と、それにより排除される危険を察知した王族や貴族がなんとかそれを利用して上に載っかろうとしてできたのが、ここで言う「公定ナショナリズム」…
夜読んだところから2箇所付け足し。
その1、ムージルの「特性のない男」からの引用があった。これはナショナリズム勃興期のオーストリア=ハンガリー帝国の事例をひくためのものだが、著者アンダーソンの注には「滑稽小説」とある。
その2、ネイティブという言葉。なんか英会話教室の宣伝に染まってしまった?せいか、この言葉にどちらかと言うといい印象あったのだけど、ここで日本語の「土人」という言葉と並列に論じられているのをみると、そういう侮蔑的なニュアンスもあるのだろう。「さすがネイティブの英語ですね」とか言われたらどんな反応するのか。「土人の日本語は分かりにくいなあ」って言われたら、さすがにむっとするとは思う。
(2013 04/22)
インドシナとスイス
「想像の共同体」から標題。
インドシナではフランスが初期はインドシナ全体で教育や行政を行おうとしたが、その後は今の三国に分割し、教育や行政の「巡礼の旅」もその内部で回るようになった…その過程でフランスは、西部インドシナ(今のカンボジアとラオス)ではシャムの影響を、東部インドシナ(今のベトナム)では中国の影響を断ち切ろうとした。例えば後者では、漢字表記を廃止してアルファベット表記にする…その為この後ベトナム人は自身の古典を読めなくなってしまう…など。
スイスは19世紀くらいまでは辺境の貧しい国。それと周りの大国とのバランスで公定ナショナリズムの成立がかなり遅くなった。時期的には植民地でのナショナリズムとあまり変わらない。そしてその頃には、国民国家形成のモデルが既にあった。
(2013 04/23)
植民地のナショナリズム
よく意味わかっていないけど、そしてやっぱり暗い内容だけど、押さえておかなければ。前者が言語的、後者が生物的レベルということなんだろうけど、この前に展開されている例がどっちがどっちって果して分類できるのかどうか。
ここは植民地支配と本国のナショナリズム等の関係の箇所なんだろうけど、もう一つ、公定ナショナリズムは貴族側の対応であるというのは前の章であったけど、植民地支配において一種の安全弁として、新興ブルジョワジーに(本国では無理だが)植民地で貴族的地位にさせるという操作(あるいは慣習)があった、という指摘は、そういう例が今まで読んできた小説にも数多くあったなあと連想されて面白かった。
(2013 04/28)
ICをなんとか読み終え
ほんとは先週くらいに読み終えたかったIC(「想像の共同体」の略、著者本人が思い入れを込めて略している)をやっとついさっき読み終えた。
とりあえず2つばかし。人口調査・地図・博物館(と古代遺跡)…これらは植民地国家がナショナリズムを形成していく上での文法みたいなものだが…の章では、分類と複製がキーワード。人口調査で一人一人に曖昧にしないように人種的分類をし、地図は巡礼の旅とともに平面の均一化と領域確定に、博物館と古代遺跡は国家の歴史とシンボルとして。そうしてこういう移行は他の地域や事象においても複製される。前の章では社会主義革命やナショナリズムも複製され近代化の近道あるいは抜け道とされている、との指摘もあった。
記憶と忘却の章では、ミシュレ(死者の語りを聞く)の次の世代から、思い起こしすぐ忘却させる歴史教育という話。ウィリアム征服王の例が一番自分にはわかりやすかったかな。イギリスの子供逹に征服という言葉でノルマン人によるイングランド征服をとりあえず思い起こして、しかし彼がイングランド王とされて英国の始祖の位置に置かれることにより彼がどこから来たのか忘れていく。これは面子の問題というより、イギリスという「国民」がずっと存在していたかのように見せかける為。日本で挙げれば例えば和寇か。
というわけで、知識の点でも語りかけのウィットの点でも、読み逃しているところもあるとは思うけど、とりあえずはこの辺で…でも、結局、近現代ナショナリズムの特殊性を語りたかったのか、それとも歴史を一貫して流れる均一化と複製を語りたかったのか、今でもわからない感じがする…
(2013 04/29)