「白樺の手紙を送りました ロシア中世都市の歴史と日常生活」 V.L.ヤーニン
松木栄三・三浦清美 訳 山川出版社
文化層の逆説
昨日はちょっとだけ「白樺の手紙を送りました」を読んだ。ロシア中世(だいたい11ー15世紀くらい)のノヴゴロドで書かれた白樺文書というタイプの第一次史料。日本の木簡とかに似ている面もあって、木簡学会?とこの著者始め研究者との交流もあるみたい。でも、どちらかというと公式性が強い日本の木簡に対して、こっちの白樺文書はかなり庶民的。その意味でも貴重な史料。
さて、そんな白樺文書はノヴゴロドの文化層から発掘される。文化層ってのはそういう史料が含まれている層のこと。その文化層がどのくらい蓄積されているかはいろいろな条件の複合による。例えばノヴゴロドの場合、かなりジメジメしているところで、地下に水の層があって空気が下から入らない為あまり微生物が生育せず腐敗しにくいみたい。なんかイメージとは逆だが、近代になり廃水事業を行うと文化層は少なくなったらしい。あと、井戸とか上から穴開けることもあまりなかった…というわけで、かなりノヴゴロドの場合は理想的だったらしい。
で、考古学者の間では非文化的な人間ほど文化層をよく残すと言われているみたい。これは要するにいろんなゴミをそのまま放置していく人間の方がそのまま遺物を残しやすいということ。
(2015 05/23)
ロスキー学習帳
「白樺の手紙を送りました」は第3章。子供のアルファベット学習に白樺文書が使われていた。絵も一緒になってたり、アナグラム的な遊びもやってたりとなんだかその光景が目に浮かびそう。
ちなみにノヴゴロドの歴史博物館に白樺文書が展示されているみたい(地球の歩き方から)。
(2015 05/25)
市長一族の屋敷群
「白樺の手紙を送りました」一昨日のところまではノヴゴロド市長一族の屋敷の変遷。屋敷地そのものを大きくしていくのではなく、割りと狭い範囲の都市内の幾つかの屋敷地を、徐々に増やしつつ(ひょっとしたら持ち回り?)所有していったことが、白樺文書の発掘からわかる。また、ノヴゴロドの有力住民が何を経済的拠り所としていたかという問いには、よくイメージされる遠隔地貿易より農業の記載が白樺文書には多い(というかほとんど)なので、土地所有農業では、と答えている。
(2015 05/28)
社会上層部に入り込んだ絵師
中世には(周りと違って石造の)教会が教区の家々の耐火金庫代わりに保管場所になっていた。 この時代の一時期には何らか?の毛皮をすいて束にしたものが通貨代わりだったという。 そして今回の最大の読みどころはイコンや教会内部の絵師であり、大土地所有者であり、修道院長も勤めた人の話。絵師がそういう社会上層部に入り込んでいたという経緯が文書と年代記で手に取るようにわかる。
(2015 05/30)
兄弟団と葬式ともろもろ
「白樺の手紙を送りました」をさっき読み終えた。
「○○が3杯分」…みたいな繰り返しの文書から、その単位となる桶が蜂蜜を入れる桶であり、これは蜂蜜から作られる酒に関する文書であると推定する。このメンバーには昨日挙げた絵師のグリチン始め今までに出てきたいろんな名前が出てくる。都市の始まりにも関わりありそうな貴族町内会みたいな兄弟団の酒盛りなのではと語る。
続いては葬儀にかかる物資のリストの文書。かなり多い穀物量。著者はこれをプスコフでペスト巡察に出掛けたものの自身もペストで亡くなった大司教の葬儀ではと推測。プスコフからノヴゴロドまで葬列とその道々の困窮民対策に充てられるリストなのだろう。
それから、白樺文書はノヴゴロドだけでなく、ロシア各地や周辺諸国でも発見されている。スカンジナビア諸国やイギリスでも発見される可能性はある。これらの国々では、白樺文書に変わる紙の普及がロシアより早い為に、ロシアより古い地層にあたる必要があるとしている。
というわけで、白樺文書は紙の普及とともに衰退していく。それとともに、草書体→筆記体が生まれペンが普及し、ピサロ(白樺文書などに書き込む(というか刻み込む)ペン代わりのもの)はなくなっていく。 今の社会を千年後くらいに発掘したら、何が残っているのだろうか。
あと、表にキリスト教関連の像、裏にそれ以前の異教の像を彫ったメダルのようなものや、その両者が入り混じったような呪文が書かれた白樺文書などは、正教初期のロシア社会がかいま見られる。また、法社会的にも、それと同じくらい初期に原始法体系や裁判の制度などあり、ノルマン人に法律を授けてくれと懇願したという「ノルマン説」は否定されたという。
(2015 05/31)
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