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「タイノ人 コロンブスが出会ったカリブの民」 アーヴィング・ラウス

杉野目康子 訳  叢書・ウニベルシタス  法政大学出版局

五十嵐書店で購入。
(2009 02/14)

タイノ人とその周り


「タイノ人」の昨日・今日で「序」を読み終え。
タイノ人の居住地域。イスパニョーラ島とプエルトリコ島に主に住んでいたのが、クラシックタイノ人と言われるこの地域で一番文明的に進んでいて、人口も多かった人々。その周りにウエスタンタイノ人と、イースタンタイノ人。ウエスタンはバハマ、キューバ(のほとんど)、ジャマイカ。イースタンはプエルトリコの東の島々からグアドループ直前まで。ここまでがタイノ人。キューバの西端はグアナハタベイ人、グアドループ島からトリニダード・トバゴの直前までがアイランドカリブ人。

イスパニョーラ島とプエルトリコ島の間は絶えず行き来があって、母系社会、「セミ」という神が信じられていた。テニスのような球技が全体で盛んで、毎試合賭けをしていたという(ちなみにボールはゴムらしく、ゴムを知らなかったスペイン人はその弾性にびっくりしたという)。

ジャマイカはウエスタンタイノ人といっても、半ばクラシックタイノ人の社会との中間くらい。ウエスタンタイノ人の主要地域であるキューバとバハマの人びとは穏やかな人達だったので、第一回のコロンブス航海では平和理に進んだ。キューバはイスパニョーラとかよりも人口養えそうな気がするのだけれど、土壌がイスパニョーラのより耕作に適していなかったらしい。クラシックタイノ人地域の東側、そしてイースタンタイノ人は、東に行けば行くほど攻撃的になっていく。それは隣人たるアイランドカリブ人との争いの結果。

そのアイランドカリブ人は、タイノ人より遅くこの多島海にやってきて、妻を周りの地域から分捕ってくるという文化だった。あとカリブ人といえばカンニバルすなわち食人部族とされていたのだが、これはかなり記述したスペイン人側の誇張。敵(ここではタイノ人)の勇敢さを貰おうと儀式で少し食したくらいだという。ここの先住民はイグネリ人。コロンブスはカリブ人に捕らえられていたタイノ人を解放したこともあるらしい。一方グアナハタベイ人についてはあまり知られてはいない。タイノ人とは言語が違う狩猟などを行なって生活していたらしい。フロリダの住民も同じ程度。

というわけで、クラシックタイノ人がこの辺りでは一番文明が高かったのだが、コロンブスの来訪とその後のいろいろにより、文明が発展段階の中途で消滅してしまったという。それはちょうど、大陸と接触する前の原始日本と同じ状態だと著者は言う。どうでしょうか、その辺?
(2021 02/15)

第2章

(自然)人類学、言語学と民族人類学から見たタイノ人ほかの人々の出自。細かい違いはちょっとわからなかったけど、アマゾン川上流部かアンデス山脈かの二つの説に大きく分かれているという。上記3つの学問分野は最初からあまり混同させない方がよい、と著者(考古学者?)ラウス氏は言う。
(2021 02/17)

第3章

タイノ人以前の先住民。彼らは、ユカタン半島から来たグループと、南米やトリニダード島から来たグループに分けられる。前者はベリーズ辺りで内陸と海岸の食糧調達文化をミックスさせ、キューバ西端からイスパニョーラ島まで。どちらかというと内陸重視。一方後者は海洋のみの文化。彼らはプエルトリコ島まで。よってタイノ人前はイスパニョーラ島とプエルトリコ島の間が分布境界だったらしい。

民族移動(移動してきた民族が先住民を駆逐)、植民(移動してきた民族が先住民の土地の一部を占領)、移民(移動してきた民族が先住民に溶け込む)の区別が必要になる。タイノ人の場合は民族移動、アイランドカリブ人の場合は植民…になるという。
(2021 02/19)

移動とその他の文化変容

 考古学者は、新しい民族と文化の出現についての説明を試みる場合、かつてのように移動だけをその原因と考えてはならないことを学んだ。分岐、文化変容、文化移植、平行発達など、移動以外の考えられる限りの原因を考慮に入れる。その上で多くの作業仮説の原則に照らし合わせながら、これらの要因を一つ一つ比較検討すべきである。
(p164)


アンティル諸島での新たな文化を見る際に、それら全ての文化が南米大陸から伝わってきたと考えられてきたが、著者ラウスは再三そういった移動のみの文化変容の考えを退け、アンティル諸島内での変容を考えるべきだとしている。これは、南米やアジアからポリネシアに文化が船によって伝わったというヘイエルダールの説から、メラネシアのラピタ文化からの進化がポリネシア人を誕生せしめたという域内変容に変わっていったというのと同じ図式。
(2021 02/24)

コロンブスの現地調査

 この頃、コロンブスはラモン・パネ神父に現地人の宗教の研究を依頼している。パネ神父は、イザベラとその金鉱付近に住むタイノ人から情報を得た。神父の収集活動は新世界で実施された初めての人類学的な調査といわれ、その報告は新世界で書かれた初めての論文といわれている。
(p240)


「二度目の再植民」から。コロンブスの4回の航海。イザベラというのは、イスパニョーラ島北岸にあるコロンブス達が作った最初の植民都市。すぐにサントドミンゴに機能は移るけれど。
この時代のタイノ人の生活は、スペイン側の史料からのみ。それでもこういう調査も行われたのか。それほど聞かれない話なので、ちょっと引いてみた。調査を依頼したコロンブスの心中はどのようなものだったのか。労働者として扱うにはどうやったらよいのかという実務的な関心か、人として相手に単に興味が出たのか、それとも、コロンブス自身の信仰の何かが揺らいだのか。
(2021 03/03)

アフターコロンブス

コロンブス後、総督はボバディヤからオバンド、そしてコロンブスの息子ディエゴ・コロンブスへと移る。ディエゴの任期最後の1524年くらいまでに、タイノ人の生活はほぼ壊滅した。エンコミンダ制はタイノ人(現地人)に半年は農園や金鉱などで働かせ、残りの半年(後に4か月に短縮)は元の共同体に戻る、という制度。イスパニョーラ島ではほぼ全員がこの制度に組み込まれ、事故や病気、中には苦慮の自殺で死んでいった。この時期の最終時期には、奴隷として連れてこられた黒人より人口が減少。その時点でエンコミンダ制は役割を終える。

この時期、プエルトリコ島やジャマイカ島、キューバ島もスペインに征服されつつあった。キューバではパンフィロ・デ・ナルバエスらが、キューバ島南東岸から斜めに横断して、ハバナ付近に達した。この時同行していたのが、バルトロメ・デ・ラス・カサスという冒険家、後に悔悛してラス・カサス神父となった人物。彼はナルバエス一行がタイノ人に対して行った残虐行為を記録している。
(2021 03/04)

現在のタイノ人の位置とその他

 私のところに研究に来ているドイツ人と日本人の大学院生は、私が使うピープルという用語の意味について質問した。第二次世界大戦中、二人の祖国の人びとがこの語の使い方を誤ったからである。つまり、文化的遺産、言語的遺産、生物学的遺産は、それぞれ別個のものと考えられるべきであり、民族集団(ピープル)は、文化的遺産の担い手を意味するにすぎないことを当時の両国の人びとは理解できなかったのである。
(p270)


タイノ人たちは、ここでいう文化的遺産、言語的遺産、生物学的遺産をそれぞれ別のところから受け継いだ例とされる。ドイツはもとより、日本も多かれ少なかれそうであろう。

というわけで、「タイノ人」を(ようやく)読み終えた。16世紀中頃にはタイノ人はほぼ絶滅したが、スペイン人またアフリカ系との混血が進み、大アンティル諸島の国々では住民のアイデンティティの拠り所となっている。(地元の人のための)民族学博物館のようなものが各地にあったり、ネオ・タイノ芸術が出てきたり、この本に写真で出ていた球技場を復元したり。プエルトリコでのアメリカの五十一番目の州になるかどうかの選挙は、この後この地域がどうなっていくかの試金石となる(タイノ人にアイデンティティを重ねる人は州成立に反対)。この前のグリーンランドやニューファンドランド島に来た北方スカンジナビア人(共存していた時間はタイノ人とスペイン人の場合の3倍)の場合も、この後のイギリス・オランダ・フランス人たちの場合も(タイノ人が絶滅した後来たため)、原住民との交流はほとんどなかった。

コロンブス交換と呼ばれる旧世界と新世界との交流。天然痘の代わりに?梅毒を伝え、サツマイモ、かぼちゃ、キャッサバ、シガー、ゴムなどを伝え、ハンモックとかバーベキューとかの言葉を伝えた。
(2021 03/05)

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