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「入門ユダヤ思想」 合田正人


前に少しだけ読んだ、「思想史の名脇役たち 知られざる知識人群像」(河出ブックス 河出書房新社)を始めとする合田氏の、興味出てきそうだけどまだ自分には捉えきれない世界の入口案内になるかな、と。

冒頭はボブ・ディラン(彼の家系も東欧出自のユダヤ系?)、最後はダニエル・バレンボイムがスピノザ「エチカ」を本がボロボロになるくらい持ち歩いて読んでいるというエピソード。バレンボイムはエチカに自由の思想を見い出すという。
(2018  07/08)

無限と多島海

 無限が何か分からないのに、ユダヤ人は、この無知をわきまえつつ至る所に現前を感じ取り、それに感謝し畏怖する。それも無限大と無限小という二つの無限に。それは果てがないという意味での「無限」ではない。果てがないがゆえに限りなく進行することではない。そうではなく、ここと今があり、そこに《私》がいて、私が何かと、誰かと出会いうるということ、それ自体がすでにして無限のおかげなのだ。
(p16)


序章を昨夜読んだ。
ここまで読んだ感触ではユダヤ教、ユダヤ人のことを語りつつも、その特殊性にではなく、人類一般の共通性へと広げる考え方なのかなと思った。この後どうなるのか。一番の中心はスピノザ、それも「神学統治論」らしい。

合田氏の思索の大元にはこの「無限」というものがある。もちろんレヴィナスの中心思想ではあるけれど、レヴィナス以外にもそれを通して世界を見ようというのが根幹にあるようだ。「名脇役」でもそうだった。

この章では他に切断線とハイデガー、作話機能とベルクソン、ユダヤ始めとする一神教と多島海(グリッサン)など気になる話題。最後のはまた「名脇役」に通じる合田氏の独自性。
(2018 07/28)


「入門ユダヤ思想」は第1、2章。カフカの橋のところの関係性の哲学は、今日最初だけちら読みした大江健三郎「ピンチランナー調書」ともつながるかな?  フロイトの「モーセと一神教」に始まる、モーセ=エジプト人説。第2章差異と類似との関係。

  「ほとんど同じもの」と「同じもの」のあいだの無限小の差異は、決してなかったものにはできないという意味では無限の差異でもある。
(p81)


まだなんだかわからないけれど、これ読むと完全に理解できたというのは錯誤に過ぎないという(もちろんそれでいい)のはわかる。
(2018  07/29)

レヴィナスと貨幣


第3章はメンデルスゾーン(作曲家の祖父の哲学者)と「市民」について。
第4章はマルクス、エンゲルスに共産主義を導いたというヘスと「貨幣」について。

   人間の数量化のうちに正義の本質的諸条件を見るのはたしかに無礼千万なことであろう。けれども、果して量も補償もない正義などありうるだろうか。
(p155)


レヴィナスの言葉。レヴィナスは貨幣に人間関係の基礎を見ている。マルクス始め貨幣には否定的な論者が多い中で、珍しい例。
(2018  07/31)

言語とユートピア


「入門ユダヤ思想」まずは第5章「言語」から

 最初の筆記が「リズム」の刻印であったこと
(p166 アンドレ・ルロワ=グーラン『身振りと言葉』より)
 アクセントとその旋律が一軍を従える王のように、背後に文字と母音を従えて進んでいる。文字は身体であり、母音は魂である。いずれもアクセントの行進に従い、それと同時に停止する
(p167 カバラの文献『ゾーハル』より)


ヘヴライ語聖書の書き方から。母音は符号として付される。
最後には、「スピノザ派」のリクールと、それに対するレヴィ=ストロースという図式が示されるが、まだ自分は消化不良。ただしレヴィ=ストロースも「野生の思考」でスピノザ的「自然」を「構造」に発展させた、という。

続いて第6章「ユートピア」

 「語りえないもの」についてウィトゲンシュタインの言うように沈黙するのではなく、「語りえないもの」の「秘密」を漏洩すること、それがレヴィナスにとっては「翻訳=裏切り」であり、それこそが「哲学の使命」なのである。「翻訳=裏切り」は「裏切り」であるがゆえに、祟られるや否や「語り直され」ねばならず、ここにも限りない過程がある
(p202)


次はカフカの事例。カフカはパレスティナへ行き、農業労働者として働こうと真剣に考えていたらしいのだが、病のためこれは夢に留まる。

 ブランショによると、そこに至ることができず世界から排除されているという苦悩がある時それは「肯定的経験」に転じたというのだ
(p203)


シオニズムでの社会主義的共同体思想の変遷。ランダウアーのいう「人間の国家とは異なる別の諸関係」(p219)は現在ではネット社会とか移民社会とかそっちのモデルになりそうだけれど、ここでは「民族」ということらしい。プルードンの「所有とは盗品である」とかいうのはマッカーシー「アメリカの鳥」にも出てきた。

砂漠の音楽


終章から気になったところを。

 他者とその「承認」にまつわるあらゆる倫理的属性は端的に放棄されねばならない。なぜなら、極めて困難な真の問題とはむしろ〈同じもの〉の承認という問題だからだ。
(p258)
 彼が見据えているのは、すべての集合を含む集合はあるのかという難題であったと推察される。この問題の難しさは、「実体はひとつである」というスピノザの考えを理解することの難しさに対応しているのだ。
(p259)


P258の書き手で、p259の「彼」であるバデュとレヴィナスとの対立がこの終章での中心話題になっている。どこで対立しているのか、対立していないところはどこでどれくらいなのか、そこらへんもよくわかっていないけど、バデュはレヴィナスの他者論を「他者をある属性で規定してしまうもの」と言っているらしい。

ラストは、自分がこの本の初紹介でも書いたバレンボイムの言葉を。

 僕がどこかで自分の家にいるような気がするとすれば、じつはそこには移動しているという感覚があるからだろう。すべては動いているのだから。音楽だって移行だろう。流動性という観念としっくりいっているときが、僕はいちばんしあわせだ。
(p255 サイードに向けて(往復書簡公刊されてたような))


ここでバレンボイムが「すべては動いている」と言う時、日本人が感じるような水、川、海の感性ではなくて、一見全く動かない、一神教の故地の風景たるパレスティナを奥底で思い浮かべながら、恐らくは語っているという視点を忘れないでおきたい。
(2018 08/05)

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