「両方になる」 アリ・スミス
木原善彦 訳 新潮クレストブックス 新潮社
ばねとニュートリノ
久しぶりの読み癖発動だけど、この文は作品全体を言い表してはいないか。ばねだけ書いて他は捨象する。
水溜りに浮かんですぐ消えた波紋のことを子供が言うと、母親はこう返す。何かの象徴であることは確かだと思うけれど、自分はなんとなくここ読んで、ニュートリノのこと思い浮かべた。
ということで、「両方になる」第一部。もっとも、第一部が二つあるらしいが。その前、巻頭句には、アレント「暗い時代の人々」の「ベンヤミン論」から真珠採りのところと、それからモンターレの詩の引用(「火花」とあるのは「うなぎ」想起させる)がある。
それから、特徴的なのは、句読点があるところとないところの差。上のp13の「駆けだす」のあとは誤植でも打ち間違いでもない。今のところまだ理由はわからない。
(2023 11/04)
現代という煉獄にて
やっと話がわかり始める…コッサらしきルネサンス期のイタリアの画家が、死後、現代のイギリスの少年の背後に常に居続けるという宿命を受けている、らしい。この辺りでは「少年」と記載されているが、解説見ると「少女」らしい(「両方になる」?)。コッサは煉獄とも思っている?
テントウムシの殻の感覚!
えっと、誤記ではない。少年や若い女より男の方が力強くない、と書いてある。ここ鍵になりそう…続く箇所には「両方になる」という言葉が出てきているし…
この小説の種明かし以外の何ものでもない気がするのだが…
表記的な仕掛けとりあえず3点
1、上でも挙げた句読点の有無。無いところはなんとなく意識の流れ的な箇所っぽい…フォークナーで言えばイタリック(邦訳では太字になることが多いような)。太字だと強すぎるので、この句読点有無方式なかなかいいのでは(といっても、全く違う理由かもしれないが)。ちなみに太字は書かれて文字で使われている模様(例:p34-35の手紙、上記p41の本、など)。
2、数字が漢数字ではなくアラビア数字の場合が多い。
その2は変換忘れてた、とかないよね?
3、第一部が二つあり、それぞれにページが配されている。その為、160ページまでが二回ある(二つの第一部、ページ数が全く同じ)。
(2023 11/07)
少年は少女だ
やはり「少年は少女だ」(p55)
イヤホン(たぶん無線型)はルネサンス期の画家から見るとこうなるらしい…
ここで、一つのことに気づく。上の仕掛けで挙げた句読点の有無…なのだが、なんてことはない(のか)、一つの段落の途中にある句点(。)は省略しているということみたい。この文の前々ページと前ページには、段落途中での句点の箇所があるが、それは(ここの場合)コッサの母親の言葉にかかっている箇所だから、要は別の人物の言葉の引用とその前後は通常通り句点をつける…と、また読み進めていくと違う例と遭遇するかも?
ここもまた、少年ならぬ少女の現代の話は2ページ半で終わり、コッサの回想に切り替わる。コッサとバルトの娼館修行。だけど、コッサは娼婦達の絵を描いていくだけだった。それはコッサなりの処世か信念…だと思いきや、イソッタという女との夜で何かが違うらしく思われ始め(イソッタはレズビアンの気もあるらしい)、メリアドゥーサという入りたての女が、コッサの秘密をバルトに話した。
そう、やはり「少年は少女だ」(二度目)。
それも、バルトはコッサのことを愛していたらしい…
そういえば、娼館通いのきっかけのレッジョへの旅行を父親がずっと許可しなかったのは、この秘密がバレることを警戒してだったのか…
話はまた複雑になる。
今日はp80まで。前半第一部のちょうど中間。
(2023 11/09)
両方の「両方になる」
フェッラーラのボルソ公爵の新築宮殿に壁画を描くプロジェクトに呼び出されたコッサ氏。3月から5月の春の部分。
まだこの文章の全体理解には程遠いけれど、またこれも小説自体の一端を言い表している文章のような気がしている。そして「両方になる」というのは、男性=女性という図式だけでなく、製作者(作家)=鑑賞者(読者)という図式をも入れているのでは。そう考えると、冒頭からしばらくしてストーリーが動き始めた時の、美術館での見る=見られる関係が一時透明化して保留された場面もそこに収まってくる。
(2023 11/14)
息継ぎと句点
コッサはルネサンス期から現代(21世紀)に来ているので、こんな感覚になるのかもしれないが、実際、自分は結構高頻度に「煉獄体験」?している。前に読んだ古田徹也の「言葉の魂の哲学」でいうところのゲシュタルト崩壊状態、とでも言おうか。
続いて、コッサが父親から、コッサが子供の頃書いた一番古い手紙を渡しながらいう台詞から。
…っと、ずっと気になっていた疑問の一つ、段落途中の文末に句点が無い問題。母親それからコッサの癖だったのか…意識の流れとか深読みし過ぎたなあ…
でも息継ぎのところは何故句点ではなくスペースなのか。同じ女性でも「ユリシーズ」の最終章は全く息継ぎなかった、どちらが不自然?
とりあえず、今日で前半の第一部は終了…
(2023 11/16)
二つの第一部を重ねてみたら
後半第一部、どうやら前半第一部の少年/少女が視点人物らしい。名前は「ジョージ/ア」。そして書かれている時点は2014年の正月。これとその前年の五月のイタリア旅行との間に母親を亡くす。この母親の生年は1962年。そう、作家アリ・スミスと同じ(ちなみに母親は11/19生まれらしいが、アリ・スミスもそう?…ウィキとかで調べればわかるのだろうけれど、そのまま謎にしとく?→調べた結果、1962年8月24日生まれらしい)。
なるほどね。その本はこの本なのね。
(本当に二つの第一部を重ねたらどうなるのだろう)
というわけで、後半始まりを今日は少しだけ。始まりだけでも、前半より「両方」の言葉遊びとテンポが増してきている。そして後半は、段落内の句点が(普通に)ある。この母親は別に息継ぎするところをスペースにする癖はなかったのだろう。
(2023 11/17)
鉛筆の削りかすと貝殻
ジョージの母は何かを、ジョージが「どうしてこんなものを取っておくの?」と聞くようなものを、取っておいている(この台詞、普通?の家庭では話者と受け手の役割が逆のような気もするが)。それは…
というわけで、それは鉛筆の削りかす。母は何らかの「プロジェクト」が終わるまで溜めておくのだ、という。これまでの描写では、確かにジョージは母親が亡くなってその気持ちの整理ができていなかったことはわかるが、それが自分にピンと来るような場面はなかった、敢えて作者はそのような場面をあまり書いては来なかった、と思われる。それが、この文章で母と子はぐっと近くなる。
今までずっと幼い弟としてのみ添えられてきたヘンリーの、初めてのそして深い言葉。
…この後、イタリア旅行の続きで、どうやら前半第一部で書かれた壁画らしきものを一家で見るようなのだが。
(2023 11/18)
失われたミステリーを求めて
さて、コッサが描いた壁画をジョージとヘンリーと母親が見る(父親はイギリスに残っている)。母親は「画家はひょっとしたら女性かも?」と指摘する。
またまた、この小説自身を暗示する文章。その中では「同時に」というのが重要。
答えはそんなにわかりやすくあるのか。答えを見ないことも必要ではないのか、とか。
家という言葉に通常はかからない比喩の多用。それはジョージの心の有り様。
後世に歴史を見る見方、その当時の人々の見方、その関係。次ページでは、このフェラーラで起こった銃殺事件のことに触れる。あと、この3人が泊まっていたホテルは、どうやら前半第一部で出てきた「ハヤブサ」の宿舎だったらしい。
でっち上げの美学
リサ・ゴリアードという女友達?恋人?と母親の場面。最初の「でも、私は…かしら?」までがリサのメール、「もっと…思っているの?」までが母親のメール。この相手の文章を疑問形に変えてそのまま返す、という方式はp57にあるカウンセラーのロック先生の手法そのもの。
Hとは、後半第一部の後半から出てきた、ジョージの学校の友達。出てきた最初(p63)ではヘレナ・フィスカーと名前が出てきたのに、その後、単に「H」と呼ばれるようになる。そしてこの二人が学校の発表会?に「共感」というテーマで話すことになっている。そこで選んだのが、この画家、要するにコッサ。というわけで、この文は多少自嘲的に小説全体を表している…だけではない。Hによれば、普通に人と会っている時も「でっち上げ」は常に行われていて、それが証拠に、ジョージはそう聞いて赤面する。
(2023 11/19)
ツイスト狂詩曲
読み終わり。
(その前に、昨日寝る前に、フェラーラのスキファノイアの絵画館を検索してみた。数年前は修復中で入れなかったらしい)
この読書記録冒頭に引用した文にもバネ(前の時は平仮名)出てきた。ぐるっと一周してきた感覚。
そのひねり(ツイスト)を使えるだけ使い切ったのがこの小説ということにはならないだろうか。
p157からラストまでは、リサ・ゴリアードがジョージの目の前に現れ、ジョージが後をつけるという場面で、そうこれが前半第一部の冒頭近くの少年/少女を追いかけてきた場面の裏返しの場面となっている…ということは円環技法?それでも通常の円環技法のように全てが結合して全て2周目に流れ込む、というのでは無く、螺旋状にはみ出しながら回っているような感じ。とにかく、言葉遊びやひねりを最大限に出しつつ書いていったのがこの作品。読んでいるこちらも最大限楽しめばそれでいいのかも。
(2023 11/20)
残された謎は…
でも、謎は残っている…あとがきにある、訳者木原氏いうところの「驚くべき仕掛け」って、何だったのか。仕掛けばかりだったけど、さらに大きな仕掛けみたいだし…
謎ときは、新潮クレストブックスの2018年小冊子(今は、新潮社のサイトから見られる)にて。
実はこの「両方になる」の流通している本のうち、15世紀イタリアパート→現代イギリスパートという流れと、現代イギリスパート→15世紀イタリアパートという流れの2種が半々で存在する、というもの。木原氏自身はイタリア→イギリスの順(要は自分と同じ)で読んだ(当然英語で)らしい。最初聞いた時、パヴィッチ「ハザール事典」みたいだな、と思っていたら、木原氏もそれ言及していた。逆の順番で読んだらどう変わるのだろう…
でも、木原氏も言うように、もう全く何も知らずにイギリス→イタリアの順で読むことはできない…同じ川には二度入ることはできない…
(2023 11/22)