「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』」 竹田青嗣・西研
講談社現代新書 講談社
精神の遍歴物語
自分自身と対象が別れていると考えるから懐疑的で終わってしまう。とヘーゲル。結局、自分自身も対象も自分の中で起こっていると考えればそれを乗り越えることになる。内→外→内、無自覚な感覚体験→対象化(言語化?)→内的統一(どちらも自分の意識の動きであったことに気づく)という運動の繰り返しで「高み」に行く。精神の遍歴物語という形式を持った「精神現象学」の始まり、始まり。
そういう運動は、物理的運動や力の考えの元ともなっているらしい。
(2011 04/20)
明日からゴールデンウィーク・・・
ゴールデンウィークといえば、やっぱりヘーゲルだよね。
G. W. F. Hegel
うむ。
というわけで、「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』」を読むことにする。このシリーズ、講談社メチエでは「完全解読」、講談社現代新書では「超解読」。「精神現象学」は意識のビルトゥング・ロマンスなんで、まとめて読まないとわからなくなる・・・の予定、ちょっとかじった部分ももう一度最初から読み直す。
「精神現象学」とルーマンの社会システム論、それぞれ別の人だったけど誰かが「推理小説みたいに面白い」と毎日欠かさず持ち歩いていたなどという逸話を確か聞いたが、そういうところまで行ってみたいもの。
ゴールデンウィークは精神旅行・・・
(2011 04/28)
全体生命が精神という名に…
超解読へーゲル精神現象学を読んでいる。第1章知覚意識のコーナー?が終わって、第2章人間関係にさしかかっているところ。
若きへーゲルは自然全体の生命事象を大きく一つとロマン主義的に捉えていて、それが後年の哲学で「精神」ガイストというカタチになったそう。このこと頭に入れながら読むとわかりやすそう。
見るからに難解というカオをした(よく見る)へーゲルの肖像ですが、若い頃はフィヒテなど他のドイツ観念論の人たちとか、ドイツロマン派とかといろいろ「青春」してた人みたい。
へーゲルからマルクスへの移行か、或いはそれ以降か、ともかくそうした時代変化以前はなんてか長閑?だった。それ以降は近代はずっとペンミスティック。
「精神」というコトバもまた個人内に限定され、「精神病」をすぐ連想するようになっていくし…
(2011 04/29)
へーゲルとルーマンと福岡伸一と…
GWにへーゲル。意識の章。
その初めに世界は一つの精神であって無限である。無限に再生産される。そこで生命とはそこに区切りを設けてその内部でも再生産していくシステム…なんてところ読んでると、再生産を自己言及と言い換えてルーマン?と思ってしまう。こう書くとルーマン読んだことがあるように思われるかもしれないが、概説書の概説書のみ(笑)。
で、ここの部分の括弧書きに、福岡伸一氏の生物と無生物のあいだの生命観に似ているとある。その背後にありそうな、オートポイエーシスとかアフォーダンスとかその辺にも直に取り組んでみる?
へーゲルって最先端なんだ…って、適当な感想(笑)。
へーゲルとマルクス・ニーチェと発達心理学
GWへーゲルの精神の旅、あまりに精神重視なので、弟子のマルクスにもっと経済を見ろ、と批判されたことは有名な話。でもそれより、例の主と奴の話で奴の方に真の自由の萌芽が見られる…なんてところで、主の方がよいとするニーチェの批判の方が根本的批判なような気がする。
人間関係意識の旅は、古代ローマからの歴史的経緯と若者の精神発達という2つの道筋が類似する…という、なんだか「個体発生は系統発生を繰り返す」の続編みたいな書き方。
歴史的な方は、へーゲルの時点をゴールにしようという辻褄合わせと見られる気がするが、若者の精神発達的な見方はなかなかかな。発達心理学的見地からもチェックしたいところ。
さっき図書館で、超解読ではなく完全解読の方ちらちら見ていたが、重要ポイントのところは両書とも同じで、超解読ではバッサリ切られているところも解説されているのが完全解読かな、とパッと見思った。
(2011 04/30)
精神現象学理性の章行為部分メモ
ということでメモ。
まずもって「個人主義」的な自分にとっては、この辺りの議論が分かりにくいところがある。章全体としては、観察→行為→事そのもの(芸術?労働?ここだけまだ読んでない)という全体の中で、恋愛→自己理想の社会変革→自己否定の社会変革と進み、その内部で、個人の自己実現→自己否定→他の自己意識とのつながりを体感…ということになるのかな。
一方で、理想主義的なカントを暗に批判してたり、そうかと思えば下宿先の女主人と関係し(結婚ではない)子供設けて「必然」を実感したり…「青春」している(笑)。
さて、一番の読みどころは美しき人倫の国(古代ギリシャ?)より、一旦個人主義に移った近代の道徳性の方が一歩高いところにいる、という記述。日本人としては?古代ギリシャ・ローマとひとくくりにしてしまいがちだが、西洋人にとってはどうやら違うものらしい。それはともかく、いろいろもの言いしたいかもしれないが(自分含め)、へーゲルのオハコ、自己否定を経た弁証法がここでも味わえる。
とにかく「理性」の章のキーワードは「(自分が)あらゆる実在である確信」ということらしいから…
場の理論…へーゲルでオタクを語れるか?
理性の章の最後は「事そのもの」。なんだそれは的な言葉だが、芸術とか教育とかいろいろなものとその制度…を指すみたい。そこは各々いろんなことを思って活動し、また批評し合うという場になっている。それが理性の最高段階。ここは次の章の「精神」の最高段階である良心と表裏一体となっている、と本にはある。こういう場が何よりも重要ならば、極言すれば、場さえあれば自ずと良いものが産まれる(そして、その逆も)。それで標題となるわけ。オタク文化から次の時代の傑作が産まれるか…
その正否は保留しといて、次の章「精神」に移る。ここの精神は時代精神にその精神が造った制度もプラスしたもの。もはや個人の枠越えてます。そういう精神が自分で運動しているそうな。マルクス始めあんまり評判のよくない??のか…この考えだが、自分的には結構ゾクゾクと。
まずは無自覚に調和していた(ほんと?)古代ギリシャから。男は人間世界・昼の世界・国の防衛を、女は神々の世界・夜の世界・死者の埋葬を…と役割分担。そして両者の結婚が次の世代を…ふむふむ。兄または弟と姉または妹の関係の話もあって興味深い。うむ。
でも、ギリシャでも弱い男も強い女もいたような…(以下略)…
(2011 05/02)
パーソンではなくキャラクター…
一昨日の古代ギリシャの人倫の国議論の続き。ソフォクレスの「アンチゴネー」が下敷きになっている。ここでの論点に即したところだけ抜き出してみると、反逆者となってしまった兄の埋葬をしようとする妹と、それをさせまいとする王となった叔父との対立…ここで男とも女とも人間は、人格(パーソン)と掟が結び付いたキャラクターと化している。掟というのは終始固定された役割というところかな?
ゲームとかドラマとかのキャラクターというのも、こうした役割固定された存在だと思うけど、そんなに掟にしばられたいのかな?他人も自分も…
(2011 05/04)
近代理性の見方
今日読んだところは近代的啓蒙のところ。流れとしては、「教養」の国(日本で教養という言葉が醸し出すイメージより、ドイツの「教養小説」=自己形成くらいに考えた方がよい)
→結局国とか社会とかも人間自身が作っていると認識
→社会に対する全否定(「ラモーの甥」が登場)
→否定してても仕方がないので?近代的理性が登場
→信仰への懐疑(宗教改革から啓蒙思想)
→啓蒙思想の3類型
(理神論(科学を突き詰めれば唯一神(本質)に通じる考え方…スピノザ、ニュートン、ルソーなど)
唯物論(物自体と感覚しかないという考え方…
へーゲルはカントを念頭に置いてる?)
そして功利主義(有用性の理論。誰々にとっての個人・社会という立場))
→意識・精神の運動を取り入れている点で功利主義が優勢…と、こんな見取り図。
信仰と近代的理性の違いは、「表象」と「概念」の違いと見る。例えば、キリスト教がこうした精神の運動を、イエスの天上への道行きとイメージで表したのに対し、近代的理性はそれを概念化してみせた。こうして自然科学とともに、有用性の考え方は世界の計量化を促し、「プロ倫」化した…とのこと。
近代哲学の総まとめ者へーゲルの面目躍如たるこのまとめ。でも、有用性で測られ、人間性を剥奪されたような人間はこれからどうするの?とまた、しかしバラバラに問うのが、現代…その意味ではへーゲルは、焦点と反転の時代を生きた…のかも。
ああ、長かった…
(カントの)道徳批判と、「良心」の登場。前者は絶対的に善である状態を前提とし、後者は相手への承認を得ることが重要だと説く。ここのp226の部分はなかなか現代にも通用しそうなところとなっている。「行動する良心」と「批評する良心」のところは、またヘーゲルの「青春」時代の思い出が入っているのかな?
(2011 05/06)
なんとかGW中に?…
超解読へーゲル精神現象学を先程読み終えた。といっても、最後の2章は付け足しというか、未来像のようなものというか…なので自分の中でまだ座る位置が定まらない。
絶対知から論理学が出るのはわかるが、そこから「外化」して自然学と歴史学が出てくるのはよくわからなかった・・・
(2011 05/08)