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「ガダマーー地平の融合」 丸山高司

現代思想の冒険者たち  講談社

方法の精神

ガダマー(丸山高司著)は、図書館で椅子に座って半分くらい読んだ。第二次世界大戦中ライプツィヒで空爆にさらされながらも講義をやめなかった。ハーバーマスとの論争でこの人のことを知ったのだけど、大きなところでは繋がっているのでは…というか、違いがまだわからない(笑)。
(2010 02/23) 

今日読んだところ(第二章まで)では、p96、97のところが一番自分的には重要なのかな、と。特に、第三。

  方法の精神のもとで、知識は、だれもが後から検証できるようなものに制限されてしまった。しかも、この方法の精神は、たんに学問の営みや、科学技術の応用にかぎられず、われわれの生活全体に浸透している。「計画し、作り、支配する」というのが、現代生活の原理になっている。
(p97)


(2010 02/23) 

最終章の適当なまとめ(有名人を中心に(笑)) 


「道具的理性」(ホルクハイマー)→「たんなる事実人」(フッサール)、「心情のない享楽人」(ウェーバー)となってしまう 
「ニコマコス倫理学」(アリストテレス)の三分類・・・「観想」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス) 
ガダマーは「実践」と「制作」の違いを強調し、「実践」に重きを置こうとしている。
「実践」にあるものは、「共通性」「共同性」「連帯」それから「賢慮」(プロネーシス)
 「理解」に必要な4項目・・・「教養」、「センスス・コムーシス」(共同的感覚)、「判断力」、「趣味」 「センスス・コムーシス」とは「正しいこと、万人の幸福についてのセンス」(ヴィーコ)とのことだが、なんかそれって、「すばらしい新世界」と紙一重だったりしないか。

ガダマーと三木清(三木はガダマーを家庭教師?としていた時期があったようだ) 同じことを違う筋道から説いていた?ガダマーは「理解」から、三木は「表現」から。自分自身を常に刷新しながら生きていく「歴史的存在」としての人間。 
(2010 03/02) 

補足1:ガダマーと幼児 (「ヴィーコ 学問の起源へ」上村忠男 より)


「ヴィーコ」から今日は第7章。
ここは言語起源説の章。前にトピカとクリティカで述べたような、類似性の拡大の時期と、それから拡大したものたちを類概念でまとめあげる時期の2つがあって、原始人類にとってはこの両者があったわけではなくトピカの方しかなかった…というのが概要(かな?)。

これは人間の幼児を観察すれば推察できる…というけど、さて発達心理学的にはどうなんでしょうか? また、この2つを区別しなくてはならない、ということは20世紀の哲学者ガダマーも述べている、とのこと。なんとなく似てるのかな?ともちょっとだけ思ってたりしてたけど… 

でも、そもそも、原始人類にはクリティカがなかったという前提は合っているのだろうか。順番としてはそうなんだろうけど、ビッグバン的に?瞬時に(人類の歴史においては幼児の時期2、3年くらいは瞬時ではなかろうか)両者が出てきたのかも。 はたまた、その逆かも(動物にとっても敵味方などの判断の方が重要だから)。
(2012 08/08) 

「センスス・コムーシス」(共同的感覚)って、類似性の拡大(トピカ)のこと? 
(2012 08/09) 

補足2:ハーバーマスと地平(「ハーバーマスーコミュニケーション行為」 中岡成文より)


「討議制コミュニケーション」を重視するハーバーマス。科学実証主義との論争後、次はガダマーの解釈学との論争へ。実はホルクハイマーが危険視してフランクフルト研究所を追い出された(後年ハーバーマスはホルクハイマーの手記を見て、管理者の難しさとともにこのことを好意的にも見るようになるが)後、ハイデルベルク大学に誘ったのがガダマーであった。

解釈学はテキストの解釈から始まり、徐々に幅広いテキストから世界の認識まで守備範囲を広げていく(シュライエルマッハーとかデュルタイとかも面白そうだけど)。個と全体との対話のうちで、新たな地平(解釈)が現れる(この辺、クーンのパラダイム論が取り入れる)。
それに対しハーバーマスはただ対話するだけでは隠された秩序には気付かない、精神分析などを用いるべきという。
当否はともかく、自分のイメージは対話が続き新たな地平になるごとに、地平の線分の長さは短くなっていく。その線分の長さが元に戻るのは、個と個が衝撃的に多数衝突(いってみれば戦争)しなければ起こりえない。とか思ったり。
(2016 03/20)

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