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「原初の光」 ピーター・アクロイド

井出弘之 訳  新潮社

これも実は再読。

不確定原理

天体観測と遺跡(環状列石)発掘とを絡めて、トマス・ハーディを下敷きに、静かに進行していく物語。個人的には、この物語を語っているのは誰か、というのが気になる。
読み始め、第1章「不確定原理」(ちなみに最終章も「不確定原理」)の始めには、この天体眺めながら話している二人の人物が、天体を語るようにこれからの物語全体を語るのかな、とも思ったけれど、名前もついているし同時代人らしいし、自分が思ったような超時代的神的人物(フェンテスのシエゴフエゴス?みたいな)ではないみたい。

さて、今のところ(p50、第9章まで)、表紙裏の〈主な登場人物〉のだいたい半分弱が出てきた。彼らを分けると、最初に出てきた天文観測組、マーク(考古学者)とその妻(若く左脚が不自由)の組、環状列石の谷の地主ミント親子組、マークが案内していた環境庁の女性役人タッパー率いる?ロンドン組…といったとことか。

 しかし実際に脚で上を歩いてみると柴草は、意外にやわで、いとも容易に根こそぎ引き抜くことができて、たちまち下のかたい白亜層が素顔をのぞかせる。だからその輝きというのは、いわば錯乱であり、その緑は、いわば破滅寸前の発熱状態だということになる。
(p11)



この文章がある第2章は、マークがタッパーを案内している場面で一見長閑な始まり。そこに自然描写に溶け込ませてこのような何かを予見しているような表現が挟まっている。
続いてはミント親子の描写から。

 つばのある平べったい古びた帽子を被っているが、しかし彼の顔や頭のいたる所から生えだすらしい豊かな毛は、そんなもので隠しおおせるわけはない-帽子の下から懸命にはみ出そうとしている毛、首から奔流のように流れ出す毛、耳の穴から出ようとのたくっている毛、眉から額へよじ登ろうとしている毛。これと対照的に、倅のミントにはまったくと言っていいほど毛がない。
(p30)


楽しい表現だけれど、本当に親子?という疑いも。どうやら、親父ミントは倅ミントに一目置いているらしい。
今日読んだ最後の章、第9章から二つの文章。

 ドーセットの草原に寝転がっていると、マークは、あたかも自分よりも先にやってきた人びと全員の手によって抱え上げられているような感じに襲われる。彼らこそ、マークを支ている地面なのだった。そうだ、ここは何かにとり憑かれている。ここには謎が秘められている。
(p48)


先のp11の文の予見が確信に変わるようなそんな文章。そして、先にやってきた人びとがいるならば、後からやってくる人びともいる。マークと妻キャスリーンは、妻の願いを聞き入れ養子を取ることにする。

 人間ひとりの生を引き受け、それをぼくらの生にくっつける-すると、ぼくらはすべての点において変わる。ぼくらの生、その養子の生は変わり、ぼくらの後に来る者たちの生もまた変わる。そのいっさいが今、始まるのだ。今この時から、ひと組の人間関係がうちたてられ、それが永遠に続き、キャスリーンとぼくの谺を代々伝えつづけることになる。人間関係の組み替え。しかし何ゆえに、それはかくもでたらめで、先は読めず、果てしがないのか?
(p49-50)


物理法則によって変わっていく天体運動、環状列石を建設した人々の行列(p40にある考古学雑誌の記事には、天候と環状列石の関係(雨が続く時代には環状列石遺跡は作られなくなる)が書かれている)、そして現代の人間関係。
この文章のあと、雨があがった夜空をマークが見上げるところで、最初のハーディへの言及(「狂乱の群れを離れて」)がある。
(2022 11/07)

メビウスの輪と本の行き来

第16章で第1部終了。
第11章「フィールド・ウォーキング」と第14章「夢幻から醒めて」で、この本にもあった初読時の下線(実際には右だけど)引き。今回の再読では、同じ章内での、違う箇所も合わせて引いてみる。
まず「フィールド・ウォーキング」。こちらは、章冒頭から。

 草地をつっ切って歩いてゆく-一歩一歩、この惑星をあとにして、またもとの所へ還ってくること。背筋はまっすぐでも、こうべを垂れているというのは、この地上にあることの二つの条件、自由とそして服従のしるし。フィールド・ウォーキング。
(p58)


何か普通には意味が取りにくい(「惑星」とか、いきなり「自由と服従」とか)けれど、目一杯引いた、それこそ惑星外からの視点ではこうなるのか、と感じる詩的な文章。
そして、同じページの最後の文が、初読時に自分が引いた最初の文(全く内容の印象ないので(それじゃイカンのだが)、まるで他者のマルジナリア見ているみたい)。

 歩く人びとが、どこか踊り手たちを思わせるのは、そのせいであった。踊り手が順ぐりに入れ替わってゆくのに、踊りそのものは何ら変わりはありはしないのだから。
(p58)


これまた、かなり俯瞰でみたら、この小説は小さな輪のたくさんの重なりに見えるのだろう。遠く近く層や大きさは違うけれど、円そのものは変わらない…この円模様を提供してくれるのがハーディの小説となっているのでは。

第14章「夢幻から醒めて」では、本を読むことについて。こちらはまず初読下線部を。

 本の世界に入り込んで二度と出て来られない、なんてことができればいいのになと、いつも思っていた。
(p71)


今でもそうだけど、これ読んでたくらいの20年前くらいはもっと、こういうメビウスの輪とか近くにあるパラレルワールド的な仕掛けが好きだった。カルヴィーノとかビオイ=カサーレスみたいな。今ではもっと好きな小説の幅が広がった(よね?)けれど、たぶん、20年前の自分はこういう「穴」を見つけて喜んで線引いたのだろう。
ただ、再読時の今の引っかかるポイントはそことは違う。今は「そう、本の中に入って出られなかったり、夢の中に永久に閉じ込められたら、どんなに幸せだろう」とそのまま思ってしまう。
(今思い出すのは「サルガッソーの広い海」の第3部。あそこでは、「ジェーン・エア」と「サルガッソーの広い海」の主人公が、互いに小説間を行き交う)
続いて第14章から、今回の引く箇所。

 本というものは、自分を忘れ去ることができるもう一つの別世界なのであった。そこではじめて自在に彼女が歩きまわることが可能な、想像の風景だった。けれど、もうとてもその中には入れない。
(p72)


彼女-キャスリーンは脚が不自由なので、こういう書き方になるのだけれど、入れない、と気づいた時、それは大英博物館に来た時なのだが、本当に自分を見失ってしまったのではないだろうか。こういう人は、これ以降本を全く読まなくなるのだろう。
その他の章についても軽く。この前の章、第13章では、発掘仲間に対してマークがペルーでの遺跡調査の話をする。密林を抜けて、彼が崖の対岸に見たのは、石組の舞台のようなものでガイドは当時はあそこから人が翔んだ、と言う。突拍子もない話だけど、解説によると、キャスリーンは「翔べるらしい」。

第16章は、ミント親子と、マークとタッパー。彼ら二人がミント親子の家に挨拶に向かう。ミントの家の古めかしさに若干興奮気味のタッパーが、彼ら親子を沈黙させてしまう。ここに「後にエヴァンジェリン(タッパー)が「原初の静けさ」と形容することになる、そんな沈黙状態」(p81)と書いてある。「原初」なる言葉が不意に現れる。
ミント親子は、一方では、この小説の下敷きハーディ作品の典型的人物の一例だともいう。ハーディ、まだ読んでいない(まだ?)ので浮かぶものはないのだけれど。
ハーディと言えば、第15章では、ミント親子を話題にしてタッパーが「緑の森の木陰で?」と作品名絡めた台詞を言う(ただし、話し相手のマークには通じない)し、そのマークの姓クレアは、天文パートの助手アレックとともに「ダーバヴィル家のテス」の人物名の借用。「原初の光」という小説自体は「塔上の二人」という小説が元の構図。
(2022 11/08)

初めての痛み


第2部17-22章。
第2部はジョーイとフローイという元コメディ訳者と元ダンサーの老夫婦から始まる。この小説のもう一方の主役か。ジョーイはどうやら昔の何かを見つけるために、谷あいのコテッジを探しているらしい。浜辺でアンモナイトを見つけ、パブで骨董屋オーガスティン・フレシャー(クレアの家の下に店がある)と知り合う。ここで自身も喜劇役者だったというオーガスティンは、主宰する素人劇団でエリオットの「一族再会」をやる、とジョーイに語る。解説ではT・S・エリオットはジョーイのようなミュージックホール芸が好きだったと書いてある。ハーディだけでなくエリオットもか。
パブから出て、ジョーイはキャスリーンと会い、家まで送ることにする。とそこにオーガスティンの店があるので立ち寄る。時計のコレクションがあり列挙される。

 そして一秒ずつ刻まれてゆく、もっとお馴染みのチクタク音など、時が計測され、手際よく片付けられてゆく音が聞こえた。
(p106)


ここも線引っ張ってある。時が何かありふれた仕事のように片付けられるのが読んでいて楽しい。
一方、先の場面でキャスリーンは役所から手紙をもらって悲しんでいる。「障害をもつキャスリーンが養子をもらえるか調査中」とのこと。キャスリーンは自分だけの悲しみに入る。そこからクレアは締め出されている。

 そして自分が仕事にしている過去の探査、つまり死者の住まいの復元作業も、妻の絶望に較べると、もうこれっぽっちの価値ももたなくなってしまう。“ぼくらのような者”-それは何百年間にもわたって人びとを悩ませてきた問題の一つではあるにせよ、つねに色褪せることなく、たえず繰り返される、いつだって初めての痛みなのだ。
(p110)


初めての…というところから、小説タイトルと関連がある内容だと思う。どんなものであれ、初めてのものを探し求める旅路なのかもしれない、この小説は。
さて、動物の骨で作ったシャベルのようなものが発掘された翌朝、何者かにより遺跡発掘現場が荒らされているのを、見つける(発掘のための作業関連物は多く壊されているが、遺跡そのものは全く手をつけられていない…ただ、骨のシャベルが盗まれたこと以外は)。
(2022 11/09)

原初の物語

第26章まで。
今日のところはエヴァンジェリンがマークの電話を受けて、女友達(以上)のハーマイオニを連れて再び遺跡を訪れる。そしてもう一軒のコテッジに誰か人がいるという情報を頼りに、マークとエヴァンジェリンでそこへ訪問してみる。と、そこは第1章の天文学者の一人、デイミアン・フォール。
とここまで書いて、引用は最後の第26章「会話」(まったくそのままの標題だが)から。

 信号は、過去に向かって送ってみたところで、それ自体の谺によってかき消されてしまう。だから、できることはただ一つ。信号は未来に向かって送ることです。
(p141)


ここでデイミアンは、過去を掘り出そうとしているマークへの当てこすりを言っているように見えて、たぶん自身の天文学について言っている。遠い天体に送る信号は過去に向けてのものになる。考古学にしても天文学にしてみても、未来に信号を送るのは無理なのでは、とも思う。けれどもしそれができるとするならば、物語の始まりを発見できるのかも。

 時間は、建造物のてっぺんの方が地階より早く流れるということ
(p143)


これもデイミアンの言葉。考古学の例で言えば逆のようなイメージが自分にはある。閉ざされた古墳の地下室などは、死んだ人間が早くミイラ化するように時間を早めていそう…

 彼ら(ケプラーなど昔の天文学者)めいめいの学説や創意そのものは、ほんの束の間しかもたなかった。しかし、もしも知はすべて一つの物語にすぎないのだとしたら、その物語に何の意味があるのだろう。
(p145-146)


学説も物語とするなら、そして、一つの知に全て集約されるのであるのなら、その知の世界から起き上がることは最早ないだろう。学説が様々違うこと、多様な物語があるということ、その関係性から新たなものが生まれてくる。では多様性の始まり、宇宙晴れ上がりで届いた原初の光は、いったいいつ生まれたのだろうか(違うことをここから引き出したかったかも?)
(2022 11/10)

プレアデス星団の投影

 このとき彼は瞬時にして、理解したというより、見たと言った方がいいかも知れない-かつて火葬用の積み薪がその頂きに置かれ、点火されると、同じ地域一帯につぎつぎと火の手があがっていった様を。その紅炎がこの田園地帯にえがく図形を、彼は見た。それは、まさしく、この古墳の真上の星の並び方そのものであった。古代の篝火は、プレアデス星団の星の輝きを模したものであったのだ。
(p149)


デイミアンのコテッジから発掘現場に戻り、そこからエヴァンジェリン達をホテルへ送ろうとしていた時のこと。確かここより前のどこかで、炎か煙が古墳上で燃えている、という表現あったと思うのだけれど。
そこのホテルで、エヴァンジェリンとハーマイオニが夕食とっている時、別のやや離れたテーブルではジョーイとフローイの夫妻が夕食中。そして気づく、フローイとハーマイオニは女学校時代の友人だったらしい。そして、ある物語を聞かせるジョーイに他の計3人は聞き始めるのだが、ハーマイオニは感心していたが、他の2人には退屈だったらしい。なぜ、ハーマイオニだけ感動したのか、そして印象が拡散し像が掴めないエヴァンジェリンとは果たして人物像がまとまるものなのか。
第2部終わり。
(2022 11/10)

外挿の物語

第3部に入って、今日読んだところでは、遺跡発掘の夜間撮影の準備をしていた櫓が崩れたり、マーサが渡し板もろとも堀におちて骨折?したり…(マーサは何者かが堀の中から見ていて、覗き込んだ時に別の何者かが押した、という)ここでしらっと、前に言及されたペルーの密林の中の岩組遺跡も、このような邪魔というか不幸というか呪いというか?で中止になった、と語られる。マークは入口にあった天井板の模様が星空であることを突き止める…となると、ジュリアン・ヒルの説が正しそうに思えてくる。
と、遺跡パートではこのような流れだが、今日引きたいのは天文台パート。ここまで枠物語の枠の位置だった彼らが、ここでは中心にすり寄って、人物の心情が細かに描かれ出す。

 このごちゃごちゃした控えの間は、アレックやブレンダにはたいそう居心地良いようだが、しかしデイミアン・フォールにとっては気の滅入る部屋であった。天空に見とれたあとは、いつもここへ戻ってこなければならないのだ。地に堕ちた状態への逆戻り。汚れたコーヒーカップ、くしゃくしゃの書類、しみのついた机を眺めるたびに、自分はこんな部屋で死ぬことになるのではないかと思ってしまう。
(p188)


「地に堕ちた」という箇所に「フォールン」とルビがある。後半の「こんな部屋で死ぬ…」は、小説最終の場への伏線の可能性ありそう。

 地上のあらゆるものは彼とともに存在し、たえず遠ざかってゆく今という瞬間に、彼と時間を共有している。あらゆるものは結びついているわけだが、その目に見えない関係の網の目は、同時性のつながりなのである。過去というものがあることは受け入れるにせよ、その証拠は他ならぬいま現在にあるのだ、とデイミアンは考えざるを得なかった。世界がこれまでに知り得たことは、現在の瞬間の継起ということだけ。そのほかに何もなかったし、今なお、何もありはしない。
(p193-194)


これも、過去を掘り出そうとしているマークの遺跡発掘を批判しているようで、それだけでもなさそう。この数行あとには、「それでも美しいものは生み出されていく」とも書いてあるし。今現在から過去を見るということは、様々な時点の過去をつなぎ合わせたパッチワーク的なものを見る、発掘するということ。夜見る星空もまた同じこと。
第36章、p207まで。
(2022 11/10)

ジョーイが生まれた頃のコテッジ、今のデイミアンのコテッジを訪れた章。

 羊たちは、じつは大空から舞い降りてきて、いっとき地表に留まっている雲なのだと、そう彼はかたく信じて疑わなかった。
(p217)

人間の欲求の天体図

ここの「彼」はジョーイ・ハノーヴァー。
現在に「いっとき」留まる、過去か未来。そのイメージ。

 なにしろこの幼い日の名残りは、なにものにも換えがたい気がした-永劫不変の感じ、世間の日常的な営みなどはとるにたりないような、あの眠りにおちる寸前の、あったかなものうさにも似た感じ、なのである。いや、現にそのとおり-いつも彼は眠りにおちるとき、いまだ知らない自分の幼少期のこのイメージの力をかりてきた。だったら、死ぬときにも、このイメージが力になってくれるだろうか?
(p217)


デイミアンは、暗闇の中、夢を見る。

 暗闇。そして、わたしには分かっている-物質そのものが残滓なのだということが。物質とは、この宇宙の完全なるデザインにとっては障碍物にほかならず、本来の空無のうわべについた、ひとつの染みでしかないことが。
(p227)

 宇宙が、その次元への失墜を反転させることができないのは、世界が、ことここまでに至るまでの発展の名残りを棄て去ることができないのと同じこと。
(p228)


そして、デイミアンはブレンダに起こされ、来客(石室にあった巨石板の模様を撮った写真を持ってきたマーク)を告げられる。この二人の対話の前に、ブレンダとアレックがシェイクスピアをそれぞれ引用して立ち去るのは、何かの暗示だろうか。

 どの世代にとっても、天空は、いわば人間の欲求の天体図となってしまう。
(p232-233)


古代人が星座として、様々な動物や英雄を天空に見たように、今の現代物理学も自身の理論を当てはめる。そして観測それ自体によって観測者の期待通りに制御されてしまう。
と、ここまで読んできて、だいたい小説半分くらい。作者はどこに読者を導こうとしているのだろうか。物質の虚無と成り行き任せの放浪へ、ではないだろう。「原初の光」とは何を指すのか。今のところ、p237にあるジョーイ、アレック、さらに今のマークにあった昂奮、そしてそれを感じ取ることができたデイミアン、というのに隠されていると思われるのだが。
(2022 11/12)

背後の狂気、コピーされる狂気


第42章から第45章。これで第3部まで終了。
ここでは、ジョーイ・ハノーヴァーが、ジョーイ・ミントであったこと(ミント親の叔父サミュエルの子供)が判明し、ジョーイの両親、母のジェニーが失踪し、父のサミュエルが拳銃自殺した森が、山火事にあい円環列石遺跡を発掘しているあの森であること。それからデイミアンがアレックに送ろうとしていた手紙に、徐々に狂気に満たされていくことを綴るところ。
まずはジョーイの言葉から。

 俗に言うじゃないか、フロー。過去は悲劇、未来は謎でも、現在は喜劇ってさ。
(p256)


ここは以前の下線が引いてある。ちょっと違うけどマルクスの名言、そして語られ方(文体)によって同じものでも現れる時間が異なる(時空を曲げるのは巨大な質量ではなくて、人間の語り口?)とか、そうそう、ジョーイは喜劇役者だった…

 そして狂気に陥ることはいとも簡単であることを、いつだってすぐ身近にそれがひかえていることを、思い知らされた。表層のすぐ下には、畏怖と崩壊をめぐる太古からの幻想が隠れひそんでいて、外につれ出されるのを待ちかねているかのようであった。発掘される時を待ちわびているのだ。
(p261)


こちらはデイミアン。ここも下線(というかひとまとめに括弧で)分。表層のすぐ下とか発掘とかいう言葉は、ちょうど近くで展開中のマークの遺跡発掘を引っ張ってきている。天文観測と遺跡発掘、中身は違えど、容易に転用されて元々がそれが狂気の源泉のように居座る。
デイミアンは「誰かに見られている」と書いている。それはここが初出ではなく、その前からデイミアンが気づいていること。それは、マークの発掘で「眠りから目覚めた」古代の天文学者、ではないかと思ってきたけれど、前章読んでくると、サミュエルかジェニーである可能性の方が高くなってきた。具体例にそれが何者か明かされずに終わる可能性もあり得るが。

 分かるかい、アレック? 狂気、それは他の人びとも抱く色んな不安の似姿をかたどって顕れる。狂気はコピーされるものなのだ。
(p262)


ここは以前の下線無し。狂気は周辺にあるいろいろなものに憑依してやってくる。「似姿」というのはキリスト教圏では重要な概念なのではないか、とも思うし。
(ということで、4コマ漫画の3コマ目のような、起承転結の転みたいな終わり方になったけど、4コマ目ならぬ第4部は全く違う話が唐突に挟まれて読者を惑わせる、とか現代文学ではやりそう…果たしてどうか?)
(2022 11/14)

ウミユリの繊条

第4部開始、自分の予想は残念ながら?外れ、いよいよ遺跡の墓の内部に侵入していく。

 現実の石や遺物に迫れば迫るほど、そういった物は、いわば不可知の領域へと遠ざかってゆく。解明されることを拒むかのように、調べるほどに見えにくく、分からなくなってゆく。
(p275)


ここもなんとなくだが、量子力学とかシュレディンガーの猫とか思い出される箇所。

 「ある意味で、わたしには何でも見えてしまうの」と彼女は言った「ほかの部屋の中の、ほかの人たちまで。みんなの顔。そうしたらつい思い出してしまうの、このウミユリの繊条を。海の中でしずかにそよいでいた姿を」
(p280)


彼女はキャスリーン。遥か昔に泳いでいたウミユリは、現在の人々の共通原母である、とキャスリーンは認識しているようだ。

 彼らがいるのは、谷間の両斜面だ。そしてこの古墳を見下ろしている。生け贄が縄を切ってトネリコの木から降ろされる時には、寂として声なし。けれども、その死骸が誇らしげに墓の中へ運び込まれる時になると、会衆の間にささやき声が流れ、それがどんどん高まって、ついにはもの凄いどよめきとなって、谷間に響きわたる。
(p287)


こちらはマーク。古墳の内部で調査をしながら、過去の情景を聞く。第3部の最後のデイミアンもそうだったけれど、ここでのマークも徐々に狂気に浸されてきているような気がする。

 マークこそ、その浜辺にいた男であった。彼は身じろぎもせず、ほとんど息もできなかった。時。こんなにも長い間、彼女は知らずにきたのだ。べつの時。時のまわりを回流している時。
(p303)


キャスリーンの浜辺での回想。マークが彼女に話しかける前から、彼女は彼を意識していた。物理学的にはすぐ近くにいるのに、長い間、何も交わらずに進む天体のよう。
ここまで第4部。
続いて第5部。古墳目当てに妙なカルト宗教集団や流れ者たちが大勢谷間のキャンプ場に集まってくる。彼らの扱いをどうするか地元民の集会も開かれる。今日読んだところの筋はこのようなもの。

 あの血族を発見することができたお陰で、彼は、自分の一生をより大きな連綿たる繋がりの一環としてとらえることができるようになった。そして以前よりも自信をもって過去を振り返ることが可能になった今、前途をも望むことができるようになっていた。
(p323)


ジョーイが自分の出自を発見して「若返った」場面。過去を見ることができなければ、それと連動した前途、未来も見ることはできない。
(2022 11/15)

塔上の二人

第59-65章。p388まで。
今日のところの最大の事件はキャスリーンの自殺。

 なにしろ仮説がくずれてしまえば、証拠も証拠ではないことになる。物件はすべて今までどおり存在していても、綴り合わせる糸が失せれば、それらのアイデンティティもどこへやら。一瞬にして出土品は、発見された当初の、脈略のない無秩序なすがたに逆戻りしてしまうのだ。
(p352)


この文章では、確か前にもあったと思うけれど、量子力学的な、観測の光(ここでは「綴り合わせる糸」)そのものが、秩序を決定づけてしまうという図式、ただ、それをしなければ、人間はどうにもならないのでは、とも思う。先回りして言うと、それがp387の文の物語ということだと思う。

 でも、二人は、地中ではなく、上方へ向かっていた。二人はスウィンジンの塔の石段を踏みしめていた。頂上に辿りつくと、なんとデイミアン・フォールがいて、望遠鏡を覗き、アルデバランを観察している。そばでキャスリーンは、崩れかけた石壁に、赤いチョークで文字を記していた。
(p361)


キャスリーンに言われて、夜中の石室に入ってみる。その壁の向こう側に通路があるということを確信する。その後眠ってしまい、見た夢の内容がこの文章。この夢を見ていた時間にキャスリーンが自殺をした。キャスリーンが身を投げた(飛んだわけではない?)のがこのスウィンジンの塔。ちなみに第一発見者が前にマークがキャスリーンに話をした「森林地に住む男」。

 他ならぬこの生も時からの借りものにすぎないのだと思った。自分の所有物でない以上は、勝手に捨て去るわけにはいかない。
(p380)


自分は自分で切り離されているものではなく、何かの一部(下の文章でいう「絵模様」)であるのならば、自分が命を捨てれば、必ず他に影響する。

 「あらゆるものは、大きな絵模様の一部というわけだ」
 「そうです。この模様がどんなものかが分かりさえすれば-でも思うに-ぼくの思うには-」アレックは頭の中の考えを整理しようとしていた-「つまりその図柄は、その外に出て初めて見えるんです。ただ、そうなっちゃうと、ぼくらの存在は消滅してしまう。ですから、ぼくらにできるのはただ一つ、物語を作り上げること。これはデイミアンからの受け売りですけれどね」
(p387)


自分を含む全てのものが含まれる絵模様を見るためには、外側に出る(死ぬことを選ぶ)か、物語を作り上げるか。天文学も考古学ももちろん小説も、こうした試みの一つ。
…しかし、マークが見たp361の夢からすれば、今回マークの訪問を断った(代わりにアレックと夜空を見ながら歩いている)デイミアンも気になる…第3部最後のp261-262の文章みるとかなり精神上に危険な徴候が…
だいたい残り100ページ。
(2022 11/16)

古墳のコイン

今日は、古墳の地下通路を辿ったマークとマーサが、1500年代のコインを見つけた(つまり、封じられてからもなんらかの人の出入りがあった)ところと、ミント家の集会(ジョーイやトラウト親子(親子間で会話のない)も一緒)。どうやらミント家はトンネル(通路)を元から知っていて、何かをやっているようであるが…
その何かを、一家の一員になったジョーイに教えようとするが、うまくいったのかは不明…この小説の全体的筋の鍵を握るのは、どうやらジョーイになるらしいが、ジョーイ自身が悩みに悩んで、なんらかの決断を示していく…という筋書きにはならなそうな予感が…
(2022 11/17)

べつの時の黙劇

410ページ辺りから下のp484の文まで(第5部後半から第6部)帰りがけと家で読んで、再読完了。

 そして闇を快く受け入れる。それは傍らに寄り添っている連れのようでさえあった。なのに、彼は闇の中にとどまっていることはできなかった。ここにじっと坐っていてもなお、外界の光景、イメージが彼のうちから現われ出でて、眼前の空気にしみをつけ、黙劇を演じるのだった。
(p421)

 デイミアンは、いつもの穏やかな瞳で空を仰ぎ、見慣れた星座が上から光を確認したかった。だが、そこに見えるのは、揺らぎ、今にも墜ちて来そうな、ばらばらな光の点だけだった。
(p435)

 実は、死に絶えるものなど何もないんだと、初めて分かったんです。われわれは時というものに捕らわれているからこそ、行くべき方向は一つだと、そう信じ込んでいる。でも死んじまえば、時から逃れられて、すべてはもとに戻るんですよ
(p468)

 こうして柩の中の顔を眺めているうちに、彼には、人影がうごめいているある風景が見えてきた。だがそれは、その顔そのものが変化し、変容しはじめているのだった。老いた顔はうごめき、ぼやけ始めた。ちょうど風が、砂原をわたって、その風景を崩してゆくように。べつの時に入ってゆくのだ。
(p477)


いつもと違い、各引用文下に一つ一つ書くのではなく、ある程度まとめて書く。
結論から言うと、昨日予測した「ジョーイの決断が鍵とはならないと思う」読みはものの見事にハズレ。

p421の文章のところで、マークは狭い通路の裂け目から堕ちた部屋で、柩を見つける。ただ、その柩はミント家の祖先のものらしい。発掘で荒らされるのを危惧したミント親子は、ジョーイにこの柩を匿ってもらうことにし、庭の小屋に置くことにする。
一方、エヴァンジェリンはジョーイ夫妻が怪しいと睨み、例の小屋にそれらしいものが置いてあるのを見つける。フレッシャーには伝えたが、マークに連絡しようとしたところ、フローイの幼馴染でもあるハーマイオニに縛りつけられてしまう。
マークとマーサはフレッシャーから柩のことを聞き、ジョーイの家に向かう。マークとジョーイがp468のようなことを語らって共感している(マークは柩にキャスリーンを重ねている)時、小屋に近づこうとしたマーサを、フローイがアンモナイトの化石で殴り倒してしまう。

そして、ミント親子、オーエンとジュリアン、エヴァンジェリンとハーマイオニと次々駆けつける。一方ジョーイは柩から祖先を引き出して(p477)、火葬する。最後まで柩を取り戻そうと躍起になっていたエヴァンジェリンも、火葬の煙に年老いた父親を見る(まだ死んでいないと思うけれど)。その他の人々もミント親子や発掘隊も立場を超えてそれぞれの「何か」を見ている。暖まる最終場面。

小説中盤でも語られた、古墳創成期の光景語りが、またジョーイの傍で語られる。そこによく出てきたフレーズが「べつの時」というもの。p421の光景も、p468の「すべて」も、p477のようにべつの時に入っていく。ここで火葬される遺体が、古墳創成期のものか、ミント親子の祖先(1500年代くらい? オーエンの読み「MはミントのM」は当たっていたことになる)か、はたまた失踪したジョーイの母親なのか、「べつの時」が入れ替わるこの世界観ではいずれでもある、ことになるだろう。

もう一つのべつの時


と言う予想外な暖かなエンディングに、一人おさまらなかったのが、実は「べつの時の絵模様」を言い出したはずのデイミアン。アルデバラン観測でこの星が急接近(青色偏移)すると感じたデイミアンは、天文台の屋根を開けて星空を見る。ここの光景がp435。べつの時というのは同じだが、絵模様にならずに脈略を失って堕ちてくる光の点…ここで、デイミアンは正気を失ったとして病院に運ばれ、ベットに縛りつけられている、らしい…

 時、べつの時。デイミアンは、縛りつけられているベットの上から、窓の外を眺める。だが、もはや何も見えない。そこには、光あふれる空があるだけ。
(p484)


この小説冒頭の、不確定性原理と同名の最終章。枠物語の内側のエンディングとは、対照的な枠外側としてのデイミアン。最後の文のこのp484の「光あふれる空」は、そんな中の、たまに訪れた平穏な昼間の光景なのだろうか。それとも、ついにデイミアンにも「原初の光」が訪れ、生という時のその向こう側憩うことができたのだろうか。
そして、全く語られていないけれど、彼の後継者アレックは、その後どうなったのだろう。

解説では、評伝作家でもあるアクロイドのディケンズの評伝から。
霊的・非現実的なものと、地上の物質的・現実的なもの。フランスでは峻別され、ロシアでは一緒くたにされる。しかしイギリスでは、両者を「人間の内面に不安定、かつ分裂的に共存させ」てきた、とそこでは述べられているという(p492)。
この言葉は特に「原初の光」にはよく当てはまると思う。
(2022 11/18)

おまけ


キャスリーンの自殺も、デイミアンの発狂も、そこまで必然性を(少なくとも自分は)感じられなかった。キャスリーンにはマークが、デイミアンにはアレックという人がいたのだから。それはたぶん、「塔上の二人」というハーディの小説を枠として使ったという経緯があるからだろう。ちなみにスィンジンの塔は、同作の天文学者の名前に由来する。そして自分は、こういった「もともと枠と構成があって、それによって物語の要素をはめていく」小説が嫌いではない(というか結構好み)。
(2022 11/19)

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