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「方形の円 擬説・都市生成論」 ギョルゲ・ササルマン

住谷春也 訳  東京創元社

イタロ・カルヴィーノ「見えない都市」(邦題は視の方かな)のような架空都市もの。こっちの方がちょっと具体物寄り。実は書いていた時期はほぼ重なる。

この本を贈られたマリアナという女性と結婚し、ルーマニアSFのドンというアドリアン・ロゴスが出版を勧めた。1975年にルーマニアで出版された時は10編が削除されていた。1992年のフランス語版で初めて全編が出版。2001年にルーマニアで完全版が出版。スペイン語、ドイツ語などの翻訳、そしてスペイン語訳を読んだル=グインが惚れ込み24編を選び2013年に英訳。
ササルマン自身は、ミュンヘンに住んでいる(今も?)らしい。


 もしかして-たとえ相応しい場所を見つけたとしても-建設した結果はむなしく、壊した街やほかの街との思いがけぬ類似を示したりはしないだろうか?
(p16)


 それ以来、この異端の民はあてどもなく沙漠を這いずっている。ときどき、運命の呪いを思い出させるためか、地平線に未発の城砦の心ときめく幻が現れる。そうして束の間、人々は熱烈な偽りの至福に包まれる。
(p17)


アラパバード「憧憬市」より。放浪の後、自らの街に帰ってきて、何かに不満で自らの街を破壊し、新たな街を築くために、それにふさわしい場所を見つけるために、また彷徨う。彼らの囁き声が何処からか聞こえてきそうな気もする。はたまた、自分たちがこの彷徨える異端の民なのか。
(2021 02/21)

 この多彩化追求は、均一性と同じくらい執拗だし、骨が折れるものだ。そうして、どんな差異も超えて、住民の振る舞いと彼らの考え方は目を見張るほど似通っていることが明白だった。
(p36)


 人人はでたらめに、思い思いの方向に、休みなく動き、占有し方という点でも空間を同質化していた。一瞬でも何処かに手がかりになりそうな空白の地か、逆に密度の高い稠密な核が形成されれば、即座に群衆が移動してそれを消し去るのだった。
(p37)


イソポリス(同位市)より。
作家がイメージしているのは「ブラウン運動」とか市の名前とかに見られるようにミクロの原子(以下)の世界なのだけど、特にp36の文など、現代社会論にもなりうる裏表さを持つ。
アレキサンダーは(量子力学における)観察者か。

他のところとこれまでのざっとの印象。
セネティア(老成市)は内陸のヴェネツィアか。
プロトポリス(原型市)極度に文明が発達し、外界から隔離されると人間は退化するのか。というテーマなのかもしれないし、これは退化ではなく進化(進化論では進化という言葉に価値観は入らないのだけど、ここでは敢えて退化の対語の意味を取る)なのかもということか。

やっぱりル=グインも、カルビーノの「見えない都市」が気になるようだけど、読んでみるとだいぶ違う印象なのね(というかカルヴィーノ読み返したらまた違うかも?)。上のイソポリスなどはカルヴィーノ寄りだと思うけど、プロトポリスとか最初のヴァヴィロンとかは現社会に通じる書き方になっている。あとは、都市という原型が古代ローマ都市なのだなという気も。イタリアのカルヴィーノ以上に、ルーマニアのササルマンの方が古代ローマ都市を意識しているような。
(2021 02/22)

 ミケランジェロのように、彫刻のプロセスは、完成を待っている像を表に出すために、石塊のもつ余分なものをすべて除去することであると考えるならば、私の本は理念的都市像の丹念な削り出しの表現と言えよう。それぞれの物語は鑿の削り屑に似ている、完成品に席を譲って捨てられるバージョンのようなものだから。こうして都市は、変形実験の繰り返しと究極の調和追求に当てられた、精妙な実験装置という、別の姿を露呈する。実験的手段は外挿的で、一つのあるいはいくつかの構成要素を極大化して、全体の均衡がしばしば犠牲になる。その効果は災厄的、いや破滅的ですらあるけれど、この介入の総体としての成果は、安易な図式化に対する警告、都市の複雑な弁証法を無視するなという警告として、有機性と中庸と総合性の説示として現れる。
(p183-184)


著者解説から。忘れてはいけないけど、著者は建築家なのだ。そして著者が仕事をし、生きていたのがチャウシェスク時代のルーマニアであったことも忘れてはならない。ここで示されている警告を無視していたのがこの時代のルーマニアではなかろうか。

というわけで、(ほんとは一夜に一編ずつ、ちびちび舐めるように進めたかったけど)今日読み終え。
印象深かった削り屑、外挿的都市をぽつぽつと。

 その夜半に届く音は重圧に歪む足場組みの呻きか、廃墟を吹き抜ける風の嘆きか、埋葬されていない石打刑死者のささやきか、それとも、どうやら、数百万匹の鼠のコーラスか。確かなことは誰にもわからなかった。
(p68)


この「方形の円」という擬説都市を描くきっかけとなった「ムセーウム」(学芸市)より。こういう背景で無数の何かがざわめくという光景は、この一編だけでなく、他の編でも見られたような。

次の「ホモジェニア」(等質市)はとにかく同じ家と同じ人間の都市という、これまた共産主義的理想の果て。もちろんこれも初版(1975年)では削除。

 最後に、個々人の形態上のどんな特徴もなくなった時、都市の全ての住民が身長も相貌も体質も同じになった時、考えの違いもとっくになくなって、はっきり言えば、考えそのものがなくなった。同じ人々が同じ動きをしていた-完璧に同期している機械のように-同じ街々の同じ家々の同じ部屋々々で…
(p71-72)


マルコ・ポーロとモンゴルのハーンが出てくる「モエビア、禁断の都」はやはりカルヴィーノを思い出させるが、結末は「掟の話」のようなカフカ的。

「モートピア」(モーター市)は、これ読んだら車にしばらく乗りたくなくなるような話。国王か何かに、「この機械をあなたの国に導入すれば、確実に文明は進歩し豊かになりますが、確実に一定率の人が死にます」と自動車を勧めたら、国王はそれを拒否した、という話も思い出す(出典どこだっけ?)。

次の「…」だけの「アルカ」(方舟)って何? 方形模様(全ての都市(掌編)にはササルマン氏による方形のパターンが図示されている)も真っ黒のみ。

コスモヴィア(宇宙市)も何か理解できないところが残る。どやらこの都市は宇宙船内部にあるらしいのだが。
 旅路の最終目的地の欠如さえ、全然問題でないと確認するに至った。何人かは、その欠如がごく自然なことだと見て、その必然性の証明までして見せたのである。
(p95)


「サフ・ハラフ」(貨幣石市)はどことなくボルヘス的。円環か螺旋か、暗い建物内部を歩き続ける探検家。

 二つの世界の境にも気づかずに、彼は静かに消えて行った、あたかも境界など存在しないように。
(p103)


シヌルビア(憂愁市)も好みな編。この都市の住民は何故か知らないが、憂愁に捕われていた。ある時住民の一人が中庭に故郷の風景を再現しようと作庭を始める。これに連れられて他の住民も作庭し憂愁を忘れるが、嵐が来て作った庭だけを崩して…

 明け方、嵐が静まってみると、庭園のあったところは深く崩れた穴となり、その底には海の一かけらが暗鬱な目を光らせていた。
(p107)


庭の穴というのが、映像を伴って残る。一番最初に始めた人物は、最後まで作庭を諦めようとせず、他の人々に庭の穴へと突き落とされる。

ノクタピオラ「夜遊市」というのも、わからないことだらけだけど、また何か印象的な一編。北欧の夏至祭みたいな夜に、弱音の歌声に導かれ、海の底へと潜っていく。

「ダヴァ」(山塞市)もまた、ヴィジュアルが先に来る編。山の頂上にそそり立つ要塞都市。最初に軽く触れられた鷲が、編の最後で物語を支配する(ル・グインがササルマン自身に鷲か鷹か聞いたのはこの箇所か)。

「ハッツゥシャシュ」(世界遺産市)はまたちょっと変わった趣き。ハッツゥシャシュというヒッタイト王国首都の遺跡が存在し、そこを調査している学者たちがどこからか現れたヒッタイト人に襲われ全滅する、という話。ヒッタイト語?を研究しているというフロズニーも実在していて、その言葉の解読状況そのものが描かれているような気も。

「セレニア」(月の都)は、月が地球上のいろいろな思想に汚染されていたという話。

 事実上、セレニアは月面全部をカバーしており、太古から居住されていたのである。
(p159)


「アンタール」(南極市)は、存在中一度も水平線から太陽が上ったことのない都市。そこに住んでいる住民は身体から淡い青白い光を発するという。後半に登場するタムタム叩きのジョーは、アンタールの住民を少しずつ歩みを早くさせ、発光の色がオレンジから赤になり、都市は溶け始め、住民は発光性を失い、流浪の旅に出た(死んではいなかったのか…)。
今まで、ムセーウムの夜半のコーラスとか、ノクタピオラの歌声とか、そういう音が出てきてはいたけど、それらは描かれた都市の中で背後に静かに流れていただけで、このジョーのタムタムは裏側の音の役割を逆さにして、前面に出てきて物語を変えてしまった例。

最後の二編、「クアンタ・カー」(K量子市)と、「アルカヌム」(秘儀市)は似た読後感を持つ。人間の理性を超えた都市。洗脳あるいは性交。後者は「失われた時を求めて」第5篇の眠りから目覚める箇所をも思い出させる。

 すべては彼の想像力ばかりがきりもなく誘惑の遊びをしているのか?
(p181)


(2021 02/27)

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