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「マッカラーズ短篇集」 カーソン・マッカラーズ

ハーン小路恭子・西田実 訳  ちくま文庫  筑摩書房

幕張light houseで購入
(2024 06/09)

悲しき酒場の唄
騎手
家庭の事情
木、石、雲
天才少女
マダム・ジレンスキーとフィンランド国王
渡り者
そういうことなら
編訳者解説

「悲しき酒場の唄」、「騎手」、「家庭の事情」、「木、石、雲」は西田実氏の訳(元々白水社Uブックス)、あとの編をハーン氏の訳

「家庭の事情」


確かにこのマーティンという父親は体裁をかなり気にする男。気になったのは、二人の子供、アンディとマリアンヌに対するマーティンの態度。同性のアンディについてはかなりフランクに接しているが、マリアンヌについては…

 女の子に対してはいつもマリアンヌとしか呼ばず、その名を口にするときの彼の声には愛撫するような響きがこもっていた。
(p157)


穿った見方(元の意味とはずれるが)をすれば、マーティンには幼児(女児)偏愛症の気があるのではないだろうか。そこにエミリー(妻)も気づいて変わっていったのではないのかな。
(ひょっとして定説?)

 歯とか、入浴とか、二十五セント玉とか、そのときどきのことに気をとられて、どんどん過ぎてゆく子どもの時間の流れの表面で、こうした軽いエピソードは、浅瀬の奔流に運ばれる木の葉のように流れ去り、その間に大人の世界の謎などは、岸に打ちあげられて忘れられてしまうのだ。
(p158)


文章的には自分が気に入ってしまうこの箇所、マーティンが自身に言い聞かせようとしているこの文章は、実際には全く逆の結果になることを暗示している。子どもたちが、両親のすれ違いやとり乱しについて何も言わなかったのは、決して忘れられない言い表せない何かが確実に残っているから。
(ここからは余談…というか暴論、アメリカ文学においてかなりの比重を占めるのがこういった家族の物語。アメリカ(合衆国)においては、歴史も政治も社会も…語ることが無いので、もう家族しか語ることが無くなってきているのでは…以上、暴論(笑))
(2024 06/09)

「悲しき酒場の唄」


作家を代表する名作とされている作品。一方で読んでみて、いろいろ雑然としてたり、説明し過ぎだったりする感はあるとも。

紡績工場が一つあるだけの小さな町に、かってあった酒場兼小売店の女主人ミス・アメリアと、彼女と過去十日間だけ結婚していたマーヴィン・メイシー、そこから数年から数十年?経ったあと、いきなり現れたいとこのライマンという男の三人の関係。

 なにを待っているのか、彼ら自身も知らなかった。なにか大事件が起こりそうな緊張したときには、人びとはこのように集まって待つものなのだ。そしてそのしばらく後に、みんながいっせいに行動を起こすときがくるが、それはよく考えた結果でもなく、だれかひとりの意志に従ってするのでもなくて、まるでみんなの本能がひとつに融け合った結果、ただひとりの人間の意志ではなく、集団全員の決意にもとづいて行動するかのごとく思われる。
(p28-29)


ここはいとこのライマンがアメリーの店(この頃は酒場はなかった)に入って迎えられたところに集まった人達について。この小説は上記三人の話ではあるのだが、裏返していうと彼ら集まる人々が本当の主役なのかも…とここ読んだ時は思ったけれど、最後まで集まった人々は傍観してただけの印象。ここまで作者から振られたら期待するのに…
でも、彼らのような人々のために、この日アメリアは酒場を開く。

 愛とはふたりの人間の共同体験である-しかし、共同体験であるからといって、それが当事者のふたりにとって似たような体験であるとはかぎらない。愛する者があり、愛される者があるわけだが、このふたりは、いわば別の国の人間である。多くの場合、愛される者は、それまで長いあいだ愛する者の心のなかに、ひそかに蓄積されていた愛を爆発させる起爆剤にすぎないことがある。そして、なぜかすべての愛する人はこのことを知っている。
(p46)


マーヴィン(愛する人)-アメリア(愛される人)、アメリア(愛する人)-いとこのライマン(愛される人)、いとこのライマン(愛する人)-マーヴィン(愛される人)、という3セットが組み合わさるわけだが…こうなるともはや「別の国の人間」とは言えなくない? というより、立場はひっくり返るが、その関係性においては相互理解は不能に陥る…ということか。
最後は演劇的見世物的なアメリアとマーヴィンの打ち合いというか喧嘩になり、アメリアが勝ちそうなところでいとこのライマンがアメリアに飛びかかりマーヴィン側が勝ってしまう。それだけでなく、アメリアの財産(蒸留所とかも所有していた)をめちゃめちゃにして逃亡する。アメリアは店を閉ざし、町の人々は遠い場所の酷い酒で我慢するしかなかった…という話。

 そんなアメリアのもとに、ライモンやメイシーといった、それぞれに規範をはみ出し生きづらさを抱えた人物たちも引き寄せられるように集まり、互いを愛し傷つけ、影響を与え合う。
(p263)


訳者解説より。この解説はハーン小路恭子氏によるもので、この小説の訳者西田実氏とは異なる表記(ライマン-ライモン)。
(2024 06/11)

「騎手」


「騎手」を読む。友人の騎手の事故が彼の何かを変えたのか?というのが窺える短編。
(2024 06/12)

「渡り者」

ハーン小路恭子訳部分は初めて。
この作品は、パリからアメリカに戻ってきた男フェリスの話。彼はジョージア州(マッカラーズ自身の故郷でもある)の父の葬儀に行って、明日はパリに戻るところ。街で前妻を偶然見かけ、何故か(既に再婚し子供も二人いる)彼女の家に電話し少しだけ訪問することになった。という話(しかもこの日は彼自身の誕生日でもあった)。
彼女、エリザベスはピアノを弾く(ちなみにマッカラーズ自身もそう)らしく、フェリスが頼むと、1曲目はバッハの前奏曲とフーガ、2曲目は何かは特定されていないけれどエリザベスのお気に入りだった曲で、フェリスの様々な記憶も想起され撹乱される。と、メイドの夕食の準備ができたという声によってそれは中断されたままとなる。

 「終わっていない歌ほど、人間存在の即興性に気づかせてくれるものはないね。あるいは、古いアドレス帳ほど」
(p234)


夕食でのフェリスの言葉。アドレス帳は、短編冒頭でフェリスが見ていろいろな人に思いを馳せた、そこに通じている。

 ひとつの都市から別の都市へ、愛も生まれては消えていく。そして時間だけが残る。年月の不吉なグリッサンドとしての、時間だけが。
(p238)


これは、パリに戻ってからの文章。パリには今付き合っている女の子供と暮らしているらしい…グリッサンドというのもピアノに絡んでいる。
(2024 06/16)

「木、石、雲」


この作品は読んだことあったかなあ…作品名に聞き覚えがあるのだけれど…
それはともかく、新聞配達の少年(だいたい12歳)がカフェ兼酒場で酔っ払った男の話を聞く、という話。この酔っ払った男は、10年くらい前に妻に出て行かれた、その後2年間はあらゆるところに妻を探しに行ったのだが、それ以降は思い出そうとしても妻の姿が思い出せず。何か全く関係ないものがきっかけで急に思い出したりする、という。

 思い出というやつは正面から攻めてくるわけではない-横から忍び込んできてこちらをつかまえるのだ。わしは、見るもの聞くもののすべてに、翻弄されてしまった。
(p171)


そしてこちらからの妻の姿の再生のために、いろいろなものを持ち帰って徐々に組み立てていく(ここら辺、シュヴァルの理想宮を思い出す)。
さて、今回少し気になったのは酔っ払いの男でも新聞配達の少年でもなく、酒場の主人レオ。彼だけに名前が与えられているのも妙(別に彼の視点から物語が語られているわけではない)だが、最初に彼がケチであることが強調させられている。表面上の酔っ払いと少年の話だけでは、全くの脇に過ぎないと思われるが、それだけではないのかも。そう考えてみれば、何かレオは酔っ払いの話に対して過剰なほどに怒りを感じているみたいだし、最後の少年の問いかけについても何も答えない。レオにもたぶん何かあったのだろう。
(2024 06/17)

「天才少女」

 抑制の利いた獰猛さで曲をはじめて、深く湧き出るような哀しみの感情へと進化させていきたかった。彼女の心がそう語っていた。でも指はぐにゃぐにゃしたマカロニみたいに鍵盤に吸いつくようになって、音楽のあるべき姿を想像することができなかった。
(p200)


前も述べたが、マッカラーズはピアニストを目指していた。この作品の解説では少女の先生ビルダーバッハ先生のヨーロッパ性と熱情に少女フランセスが憧れている、とあったけれど、今回読んだ印象では逆に先生が少女に何を見ていたか、ないかもしれない何かを見ていたのかが気になった。それにフランセスは耐えられなくなったのだろう。結局、彼女はレッスン場から出ていく。

「マダム・ジレンスキーとフィンランド国王」

 そのときのマダム・ジレンスキーの顔を、ブルック氏は二度と忘れることができなかった。その瞳には驚きと、不信と、追いつめられた恐怖があった。自分の内面全体が引き裂かれてばらばらになるのを目の当たりにしている人間のような表情を浮かべていた。
(p218)


これも音楽ネタ。でも主題はそこではなくて、音楽学部のブルック氏がマダム・ジレンスキーを教師として迎える、そのジレンスキーが日常的に嘘をつく、意図があるわけでもない嘘を止めることができない(虚言症とでもいうのかな)人物だったというところ。別に「お菓子屋の前でフィンランド国王に会った」とかいう他愛のない?嘘ばかり。でもブルック氏は結果的に問い詰めてしまってこういうことになった。でも、ばらばらになっていない人の方が珍しくはないか、という気もする(それはこの自分がそうだからか)。

「そういうことなら」


この作品だけは底本(「悲しき酒場の唄」1951)にない初期の短篇。「最初の作品にはその作家の全てが含まれている」とはよく言われるけれど(この作品が一番最初ではないとは思うけれど)、この言葉がしっくりくる例ではなかろうか。「あねき」が恋愛に浮き沈みしる姿を横目でみる「冷酷無情(ハードボイルド)」な妹。自分はそういう大人になりたくない…と言いつつ、動転しもがいている。この文庫内では、この作品だけ一人称で書かれているのも瑞々しさを感じさせる。

ということで読み終えた(「天才少女」は昨日、「マダム・ジレンスキーとフィンランド国王」は昨日続けて読んだのだけど、眠くなって今朝最初から読み直し。その勢い?で「そういうことなら」も読む)。「クィア」(変)というキーワードは作品内にたまに出てきたけれど、いわゆる同性愛的な文脈ではあまり出てこなかったように思う(ライマンとメイシー、それから「騎手」かなあ)。マッカラーズ自身も異性愛、同性愛どちらもあったという。
(2024 06/19)

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