リルケ詩集からいくつか
神品芳夫 訳 新・世界現代詩文庫 土曜美術社出版販売
「秋」
木々の葉が落ちる、遠くから落ちてくるように、
空のかなたで庭の木立ちが枯れているのか、
木々の葉は、拒む身ぶりで落ちてくる
そして夜には重い大地も
ほかの星たちから離れて、孤独のなかへ落ちてゆく。
わたしたち、みんな落ちる。この手も落ちる。
ほかの人たちを見てごらん。落下はすべての人にある。
けれども、この落下を限りなくやさしく
両の手で支えてくれる存在がある。
(p38)
リルケの中で落下というのは中心テーマの一つらしい。後で、後年の「重力」と読み比べて何が変化したのか見てみよう。特に最後の連。
「ばらの内部」
この内部にふさわしい外部は
どこにあるのか。どんな痛みの上に
この亜麻布は当てられるのか。
どんな空が、このなかに
この開いたばらの
この屈託のない花々の
内海のなかに映っているのか。ごらん、
ばらはみなほどけかかり、ほどけた
空間にやすらう、ふるえる手が触れたなら
花びらがこぼれてしまうと恐れつつ。
ばらはみずからを支えることが
できない。多くのばらはいっぱいにあふれ、
内部空間から昼の空間へ
あふれ出ていく。昼の空間は
ますますみなぎりつつ閉じていく。
ついには夏全体が一つの
部屋になる、夢のなかの一つの部屋に。
(p100)
この詩はリルケの中で一番印象深く残っているもの。内部と外部が、ほどけてみずからを支えきれずに部屋となる。
「オルフェウスのためのソネット第二部1」
呼吸よ、目に見えない詩よ!
たえまなく自分の存在と
純粋に交換をくりかえす世界空間。その均衡に
乗ってわたしはリズミカルに生起する。
ひとつひとつの波の、ゆっくりと
集まってできた海がわたしなのだ。
およそありうる海のうちでもっともつましい海-
空間の獲得。
空間のこれらの場所のうちどれほど多くがすでに
わたしの内部にあったことか。多くの風は
わたしの息子のようなものだ。
かつてわたしのものだった場所であふれる大気よ、わたしが分かるか。
わたしの言葉を保つ樹皮であったものよ。
円いふくらみであり、葉であったものよ、
(p127-128)
この間読み終えたばかりのセリーヌ「戦争」の、最後の海の文章とも呼応しているような。
海は自分の中にある別世界、自分のようでも他世界のようでもある。前の詩の内部と外部は自然に折り返し一体化するのに、こちらの海は内部に湛えたまま?
「重力」
中心、あらゆるものからおまえは
自分を引きよせる、飛んでいる人からも
自分を取りもどす、中心、最も力強いものよ。
立っている人-飲物が渇きの谷へおちていくように
立っている人の中を重力がまっしぐらに落ちてゆく。
けれども眠っている人からは、
横たわる雲から降るように、
重力のゆたかな雨が降っている。
(p150)
p38の「秋」との対比。秋=落ちる=重力の遷移。英語では秋も落ちるもfallだが、ドイツ語でも同じなのか。p38では支えてくれる神のような存在が予告されていたが、ここでは生態系の循環のように自らが変わってゆく。
ばらよ、おお 純粋な矛盾、
おびただしい瞼の奥で、だれの眠りでもないという
よろこび。
(p152)
これはリルケが墓銘碑用に書いた三行詩。リルケは実は俳諧も読んでいたらしく、それを意識したらしい。
訳者神品芳夫は1931年生まれだけれど、柔らかな今に通じる言葉を書くので初めてでも読みやすい。