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「サンクチュアリ」 ウィリアム・フォークナー

加島祥造 訳  新潮文庫

散乱

まずは「サンクチュアリ」というタイトルから。

 それはグッドウィン一家たちが住んだフレンチマン屋敷を指している。そこでは非合法結婚をした夫婦が非合法な酒の密造販売をしているのであるが、非合法の領域に彼らだけで暮らすかぎり、彼らは平穏であった。そこへ外の(すなわち合法の)世界の人間たちが侵入してきたために、彼らの平和は崩れ去り、一家は四散する。そこには合法の側の暴力と非合法の側の平和という皮肉な含みが隠されている。
(p349-350)


さて、読み初めてすぐの印象を一言で言うと、「散乱」。

 水を飲む男は、細かく分裂して反映する自分の水影に顔を近づけた。立ちあがったとき、何の物音も耳にしなかったが、自分の水影にポパイの麦藁帽子を見つけたのだった-それもやはり細かく砕けた映像だった。
(p5)

 家へ帰ってくる間じゅう、ぽたぽたともれつづけて、しまいにぼくは自分が自分のあとをつけて駅まで行き、横に立ってホレス・ベンボウが箱を列車からおろすのを見まもり、それから彼が歩きはじめて百歩かぞえるごとに持つ手を換えてゆくのをそのあとからついてゆくみたいな気持になって、ぼくは思ったね、ああ、ミシシッピ州の鋪道に落ちる臭い小さな水玉、この薄れてゆく斑点のひとつひとつにホレス・ベンボウが埋まってるんだ、とね
(p21)


バラバラな町、バラバラな家、そしてバラバラな個人。
そんなバラバラなものをなんとか離散しないで繋ぎ止めているのが「サンクチュアリ」つまり家。フレンチマン屋敷はもちろん、ベンボウが家出してきた家と、ベンボウの妹が未亡人として暮らす家など、こうした家が主人公で、そこに出入りする人間は何かの流れていく流体の破片のようにも思える。

唯一、断片化していない人物が、フレンチマン屋敷に料理人としている女の赤子。この女ルービーと赤子は、「八月の光」のリーナとバイロンのような「光の筋」にある、と解説加島氏。ただ小説結末で明るく町を出て行くリーナとバイロンに比べ、結末に登場しないルービーと赤子、そして元の家に戻っていくホレスの筋は、前者が対比関係にあるとすれば、後者すなわち「サンクチュアリ」は秘匿とか寄生(これは違うか)の関係になる。でも、実際の人生は後者の方に近いのかも。
とにかく前置きとか枠物語とかいうものは何もなく、最初から主筋が始まる「金太郎飴」的な、簡潔だけど実の詰まった展開。他のフォークナー作品もそうだったかな。
では最後に、メインの「サンクチュアリ」、グッドウィンやポパイ、トミーたちが住む、フレンチマン屋敷の描写を見よう。

 乱れた枝をさし交わす杉林のなかから、その家はうつろな廃屋らしい姿をにょっきりと現していた。それはオールド・フレンチマンという名で知られた屋敷で、南北戦争の前に建てられたものだ。
(p10)


(2022 08/13)

彗星と穂軸

今日は第8章(という言い方でいいのか)

 まばたきしながら、トミーは小道を行く彼女を見おくった-そのほっそりした体はふと一瞬だけ動かなくなり、背後から来る自分の一部を待ちうけるかのように見えた。それからその姿は影のように家の角をまわって消え去った。
(p71)


ここも前のp21のホレスの文章と同じように自分の一部が置き去りにされているイメージ。たぶん、ここまでのページでもそういう文章は随所にあったのだろう。

 それからさらに、マッチの小さな彗星が雑草のなかに落ちるのを眼で追っていた。
(p75)


こちらは、この本を読むきっかけともなった、「フォークナーの町にて」で引用されていたコオロギの文章に見られる、宇宙的イメージを喚起させる、導入の文かと。地球上の小さな家のサンクチュアリと、それから宇宙と、その対比。

 男たちの声はちょっとの間、静かになっていた、そしてトミーの耳には、マットレスのなかにある穂軸のすれあうかすかなかわいた音が聞きとれた。
(p77)


今度は(玉蜀黍の)穂軸。テンプルに割り当てられたベッド?のマットレスに穂軸が入っている。ここ以外にも「穂軸の音」は出てくるのだが、それは後にこの穂軸で行われる事態を明らかに予兆させている。
(「予兆」に「させる」ってつけられるのかなあ)
さて、ここまで3つの文を引用したけれど、全て視点はトミーとなっている。この小説でのトミーの立ち位置は、「響きと怒り」のベンジーのようなものなのか。フォークナーが視点人物として好む、一類型なのかもしれない。
(2022 08/15)

空間と時間の入れ替わり

周りの農村部から町にやってきた人々の描写。

 その表情は家畜か神様のもつ大きくてのんびりした神秘さを帯びていて、いわば時間の外側で動いている存在、時間などは緑の玉蜀黍や綿のゆったり無邪気にひろがる土地へ、それも黄色い午後のなかへ、置いてきてしまったといったふうなのだ。
(p117)


町という空間-時間(時間の外側)-空間(玉蜀黍や綿のひろがる土地)-時間(黄色い午後)
と、時間と空間の表現が交互に小刻みに現れる文章。
さて、昨日読んだところから、今日読んだここまでで、語られることは少ないが、その語られない裏側で、ポパイとテンプルとトミーが事を起こし、前者2名は車で去り、トミーは殺されて町を散策中のホレスの目の前に置かれている。
(2022 08/16)

時間と空間、そして天体

第18章。リーがポパイとテンプルが車に乗って出かけていったことを前章最後に話し始めるのを受けて、この章はそこからテンプル側に移る。ポパイはテンプルをメンフィスのリーバの娼館に預かってもらう。その部屋の置時計はずっと十時半を示したまま。

 夕陽の残映が置時計の表面に集約されるにつれて、暗がりにあいた円い穴だった文字盤は、やがて原初の混沌の空虚のなかにつりさがる円盤となり、つぎには輝く水晶の球と化していった
(p161)


この小説にはいろいろな人物が登場し、いろいろな筋が展開するのだけれど、本当の主役はそれらの外側の舞台装置である時間と空間そのものなのだ、といったような文章。それに天体の配置が交差し重なる。

 むくむくした毛の不恰好な姿、残忍で、気まぐれで、甘やかされてむなしい誇りだけしかない庇護された暮し、それが何の警告もなしにたちまち奪い去られて命がけの恐怖と戦慄の淵に突き落とされてしまうのだが、そんな一撃を与える手というのが、ふだんは、彼らの暮しの安寧を守り保証してくれているものそれ自体なのだ。
(p166)


このミス・リーバの二匹の犬(飼い主の機嫌が悪いと二階の窓から突き落とされてしまう)の表現から、それを眺めているテンプル自身の境遇がこれまた重なる。
(2022 08/18)

幻体による珍道中

今日は第19章から第21章。ホレスとルービーが話すパートは、フォークナーお得意の、誰かの告白や思い出話を聞く場面の一つ。
続いてはホレスが妹ナーシサと話す場面の、ナーシサの言葉。

 わかるでしょ。この町はあたしの家と同じようなものなのよ、あたしがこれから一生暮すほかない所なのよ。あたしが生まれた所なのよ。
(p197)


人道主義からグッドウィン一家を助けようとしてるホレスに対しての、常識人ナーシサ。という構図といえば簡単なのだけど、この今から百年前のアメリカ南部の田舎町の女性の世界は、この町そのものだった、それ以外にはない、それを思うとこの小説を読む視点が複数立ち上がる。

一方、テンプルを探すホレスは列車内でクラレンス・スノープスという上院議員に会う。スノープスというのは、(たぶん)フォークナー後期の作品に多く出てくる一族、その一人がこのクラレンス。ぽつぽつとこの辺りに移住してきた一族のおかげで、その一族の票だけで上院議員になった、という記述からはフォークナーがこの一族をどう考えていたのかがわかる。
そして、その一族の一人ヴァージルと友人が遊びなのか何かなのかで、メンフィスを訪れる。訳者解説には、ポパイ-テンプルの筋より「むしろ、各所に挿入されたユーモラスなシーンが、より生彩を放っている」(p348)とあるが、この二人のメンフィス珍道中などはその典型例だろう。とにかく、この二人がたどり着くのがテンプルもいるリーバの家。その場面からこんな一文を。

 二人はその最初の晩、しばらく眠れなかった。というのも寝床や部屋が変ったし、いろいろな声に悩まされたからだ。いわば大都会の声が耳についた、というわけだ-煽情的で奇妙で、身に迫るようでいてはるかに遠く、脅迫と希望の混ざったもの-見えぬ燈火が揺らめき輝くなかから起る深い絶えざる響き
(p208)


前にテンプルがここに連れてこられた時にも、こういう都会の声と音の複合体の文章があった。やはり、そこに実際にあるのはこうした音で、そこにいる人物は作者によって仮に作られた幻体のようなもの、のように思えてくる。
…そしてこの二人はここでクラレンスに会う。
(2022 08/19)

全てが切れたあとの誇りと、地軸が擦れる音


昨日寝る前に少し読もうとしたら、クライマックスだった…前に「フォークナーの町にて」(加島祥造著 関連書籍参照)で引用した文も出てくるし…
内容は、例のリーバの家で、テンプルがポパイとの一件を語るところ。昨日あげたユーモラスな二人組の話は、最終的にはここにつなげる導入だったわけだ。

 突然ホレスはこう納得したのだった-そうだ、彼女は実際に誇らしい気持で自分の経験を語っているのだ、と。その誇りとは素朴で無邪気な虚栄心ともいえるもので、いわば彼女はこの話を独り勝手な空想で作りあげているような気持なのであり、だからたえずすばやい視線を彼からミス・リーバへと転じつづけていて、それはまるで一匹の犬が二頭の家畜を小道のなかで追いたてるときのようだった。
(p233)


彼女がテンプルに「臆病者」と言ったり、男の子に変身しようとしたり、そういうことや考えがその時そのまま起こったということはないだろう。誇りを持つということは、こういった最後の心理的安全弁が切れた時にすがる場合にも使われる、または人間的退行の最終局面に現れるものなのかもしれない。

 彼は静かに車寄せの道を歩いていて、はやくも垣根にある忍冬の香りをかぎはじめていた。家は暗く静まりかえっていて、たえず寄せてくる時間の潮に揺られつつ空間につりさがっているかのようだ。虫の声は低い単調な響きになっていて、あたかもその音は、本来であれば水に生きるべきものが陸にあがったためにいまや必然の断末魔の苦悶の声をあげているかのようであった。月が頭上にあったが光沢はなく、地面は足の下にあったが闇の暗さはなかった。玄関のドアをあけ、手さぐりで部屋へ、そして電燈のスイッチへと進んでいった。夜の声が-何の種類であれ、とにかく虫どもが-彼のあとから部屋にはいってきた、そして彼は急に気がついた。あの音は地球が地軸を中心にしてまわるときの摩擦音で、それがいまやさらにまわりつづけるか永遠に停止してしまうかの境界に近づいているのだ-その表面をよぎって忍冬のにおいが冷たい煙のように這いまわる地球は、いまや冷却する空間のなかで動かぬ球体と化しているのだ。
(p241)


一段落まるごと。
同じ加島祥造訳なのに「フォークナーの町にて」と案外違うなあ(最後に再掲しておく)。
感覚や時空の違う種類のものが重なり合う表現が巧みに入れ込まれている。時間の潮とか、忍冬のにおいの冷たい煙とか。「月が頭上に…」の文は今回ここで一番自分的に印象に残った箇所。まさに時空に吊り下げられた感覚。
そして地軸。ホレスの内面が外側に裏返って展開され、そこに虫の音が加わる。本当に停止するのは彼の思考そのものであろう。

 虫の声は低い単調な響きになっていて、あたかもその響きは、本来なら水棲であるべきものが陸にあがったためにあげる必死の断末魔の苦悶の声であるかのようだった。 
 あの音は地球が廻る時に地軸の軋って出す音なのだ、しかも地球はいま、さらに廻りつづけるか永久に停止してしまうかの境目に近づいているんだ、そしてその表面をスイカズラの匂いが冷たい煙のように這いまわっていて、地球はいまや冷却する宇宙のなかで動かぬ球体になろうとしているのだ。 
(p91-92 「フォークナーの町にて」) 


こちらの方が、ホレスの思考に寄り添っている感じ。
(2022 08/20)

小説の謎とその外側に立つ詩

 「男ってものはね」とミス・マートルが言った。「あたしたち女、現にあるままの女として受取れないみたいだわねえ。あたしたちを自分の好きなような女に仕立てておいて、それから今度はまた別のようになれって言う。あたしたちには他の男性に眼もくれるなと言いつけるくせに、自分たちは好き勝手に楽しんでるんですものねえ」
(p275)


「サンクチュアリ」昨日読み終え。まずはリーバと殺されたレッドの知り合いらしい二人の老女?の会話から。ここは、小説構造的には、リーバの家でのテンプルとポパイ、レッドとのやり取りが語られる箇所。上記会話は、全ての作品内関係を示しているところか。あとは、この二人が連れている5、6歳の少年というのが、ビールを次々盗み飲みする件…これなど、百年経とうが、こうした残酷な世の中はずっと続いていくほかないという印象を与えるのだが。

次は(本当は殺人はしていない)グッドウィンが、群衆にリンチにあってガゾリン罐を背負い火をつけられている、その騒ぎを遠くで聞いた(感じた)ホレスの箇所。

 いまホレスが聞いたのは物音ではなかった-それは走ってゆく足音が消えてゆく方角の空中にある何かであり、それが彼の耳に聞えたのだ。
(p319)


解説にあった、グッドウィン一家とホレスの刑務所最後の夜と、牧師と一緒に祈ることを拒否し金を気前よく与えながら絞首刑に処されるポパイとの対比。両者とも自分の命を消極的ながらも自分から手渡した格好にはなるのだが。自分にとってまだわからないのが、グッドウィンの行動。酒の密売ということはあるにせよ、どうして自分の犯した罪ではないものを黙して受け入れるのだろうか。そこにはまだ何かある?

ここで、少し脱線。そもそもだけれど、この小説のあらすじ、ポパイがテンプルを玉蜀黍の穂軸で犯し、トミーとレッドを殺した…というのは、これは実際にあったことなのだろうか。テンプルの件にしてもレッドの件にしても、それが語られるのは、テンプルの半分狂ったような告白だったり、噂伝聞だったり。読後感としては、テンプルの偽証と同じくらいの位置にあるような感じなのだが。
そして、最後はこんな文章で閉じられる。

 彼女の視線はその消えゆく管楽器の音響にまざりこみ、池を越え、さらに木々が半円形にそびえて汚れた大理石像となった静寂の女王たちが等間隔に立ちすくむあたりを越え、そして雨と死の季節に抱きしめられてぐったりうつぶしている夕空にと融けこんでいった。
(p343)


これはテンプルとその父親の判事の描写。この二人、なんとパリにいる。あの町は離れるとは思うけれど、まさか国外にまで。父親には娘が嘘の証言をしているとわかっていたのだろうか。
様々な筋が入り乱れ、真偽が明滅する人間社会よりも、美しい詩の文章がかちりと外側にある、という印象のこの作品。p319の文章もそしてこの文章も、様々な感覚や時間と空間が混ざり合って、そして溶け込んでいく。
(2022 08/22)

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