見出し画像

「ろばに乗った英雄」 ミオドラグ・ブラトーヴィッチ

大久保和郎 訳  現代東欧文学全集  恒文社

視線の移り変わりが独特な小説…


この間少しだけ読んだ「ろばに乗った英雄」。今日から本格的に。モンテネグロの小さな町らしいところに駐留しているファシズム・イタリア軍が、今のところの舞台。

そこで、標題のようなことを思ったのだが、主要登場人物らしい大佐を中心に、町の広場をぐるりと一回りするかのように描写が続く。描写が広場での出来事になっても、どこかに(広場に面した建物内にいる)大佐の眼差しを感じる。そうした中で、ふと大佐の思っていることが出てきたりもする。そんな、独特な書き方。
ところで、解説にあった話題で、日本に来ている(旧)ユーゴの人が、「九州は日本のモンテネグロだ」と言ったらしいのだが…なるほどね。どちらも山がちで、人柄も?…
(2011 11/28)

大佐(主人公、ではないみたい)は馬に乗って足が地から浮くだけでも苦手な人みたいで、そんな人がオンボロの飛行機に乗ったらどうなるか…というユーモラスな場面。
(2011 11/30)

イロニーとは?


「ろばに乗った英雄」。やっとこさ百ページ。
で、イロニーとは何か。酒場で、酒場の主人モンテネグロ人のマリッチと、イタリア人アントニオ少佐が話している。

 おまえがここで見るすべてのもののことさ、おまえもおれも例外じゃない
(p83)


と、少佐。どうやらこの人物、この戦争体験をもとに小説かなんかを書こうとしているみたいで、そう思うとなんだかこの台詞もプラトーヴィッチから読者に言われているような気もしてくる。
でも、解説等によると、主人公的人物はマリッチの方らしいけど…

さて、さっきの言葉に続いて少佐は、イロニーとは猥雑と同じだ、と言う。ま、確かにポルノグラフィ貼りまくりのこの居酒屋は猥雑の宝庫。ただ、それがイロニーと同じとは…わかったような、わからないような…
ところで、イロニーはだいたいが「何かに対しての」イロニーではないだろうか。ということは、マリッチや少佐は言うに及ばず、作者や読者も独立したコギトなどではない、と言っているみたいで…
(2011 12/01)

太陽って時々消えるっけ?


「ろばに乗った英雄」第2部まで。だんだんマリッチの視点になってきた。イタリア軍がモンテネグロ人のバルチザン活動家を捕まえた、ということで少佐がいろいろ演説しているところに連れてこられたのは、活動家ではなく流浪しているちょっと痴呆っぽい、でも皆からかわいがられていた?若者。彼をその活動家として捕らえてきたイタリア軍もなんですが、かといってモンテネグロ側も特に何をするでもなし。そんな喧騒の町を照らす太陽の描き方が印象的。

さて、マリッチの方は共産主義の活動家?と知り合って有頂天になるのだけど、こっちの活動家も司祭が放ったニセモノ。解説の安岡氏によると、この時点では彼マリッチはドン・キホーテ(サンチョ・パンサが少佐)…この後、町を離れてバルチザン?となってからは「パルムの僧院」のファブリスになるという。どちらも特定の軍隊(ファブリスの場合はナポレオン)に憧れさ迷う。ファブリスの場合、ナポレオンはなくなってしまうけど、マリッチの場合は架空にいつまでもあり続ける…この辺はまだ当分先の話。今はまだ酒場の主人…
だいたいが、「パルムの僧院」読んだけど、よく覚えていない…
(2011 12/04)

演説のパロディーまたは演説こそ人生


「ろばに乗った英雄」も第3部に入って中盤に。第二次世界大戦時のモンテネグロを描いているのだが、「戦争文学」っぽくはなく、話されている言葉や憑かれている思想などをとっかえれば、近くでもそこらじゅうで見られるような構図。

そんな中、今日のところは大佐のところとマリッチのところで交互に「演説」が。鍵括弧ついている通り、普通に想像する演説とはほど遠いものですが、少なくとも当人にとっては演説モード。そいえば前の部でも少佐が演説(これは、まあ普通っぽい?)してますし、まあこの小説全体(まあ、前半は)が演説のパロディーといっても差し支えない感じ。

でも、まあイタリアは特に演説というか弁論術は重視されているみたいだし、「われ演説する、故にわれあり」みたいな感じなのかな?
(2011 12/05)

眩暈に似てきた…ような


昨日の分の続きから今日の分までの「ろばに乗った英雄」。は、なんかむちゃくちゃになりつつある。このむちゃくちゃさはカネッティの「眩暈」に近づいてきているように思える。町の司祭やホジャ(ムスリム側)がマリッチのポルノグラフィの愛読者だったり、大佐が望遠鏡で女を覗き見して投げキッスを送るのを先の司祭一行が自分たちに送られたと勘違いしたり…

そんな中、戦車の横にいつも立っている兵士と両親を殺された子供の場面や、現地の女とやっている兵士とその兵士がイタリアの妻に書いていた手紙が草に絡まって風に飛ばされていく場面など、美しいところもきちんと用意。

そんな、モンテネグロの小さな町の終戦間近な諸相を、(今のところ)ドン・キホーテたるマリッチは、あらゆるところで喧嘩をふっかけながら歩いていく。現代のドン・キホーテと呼ばれる作品はいろいろありそうですが、この作品などはかなり近い感じがします。
(マリッチに関しては、大佐が彼を評価した言葉も参照のこと)
(2011 12/06)

手紙の文字の描写からみた作者の経歴


今日の「ろばに乗った英雄」、第3部の終わりから第4部の始めまで。第3部の終わりでは、人間違いで捕らえられたラシュコが脱獄して狙撃される。ここで狙撃するのは、昨日読んだところにあった草に絡まった手紙を書いたニーノという兵士。

で、狙撃した後出てくるのは、その手紙が元に戻って文字が起きた出来事を悲しむ?という描写。この間も言った通り、眩暈的むちゃくちゃなストーリーになりつつあるこの小説、こういうなんてかシュルレアリスム的な、(手紙の文字がぐるぐる回るという詩?では)ダダ的な、こういうのは初めてだったような気がする。作者プラトーヴィッチは少なくともシュルレアリスムの洗礼を受けているのかも(元は詩人?)と想像してしまう。でも、この小説では表面上リアリスティックを追求した(ふり)方がよかったかな?とも思ったりして…

第4部の始めでは、ついにこの小説の白眉と言われる、マリッチの放浪が始まる…のか、といったところ。で、「ろばに乗った英雄」というタイトルのうち、「英雄」はマリッチだとして、ろば…らしきものが(やっと)出てくる。これに乗って放浪するのか?
今、思いついたけど、いろんなことしてもイタリア側から何も責められないマリッチという人物、当人は孤独かもしれないけど、周囲からすれば余程の「イイヤツ」なんだろうね。もしくは「存在感のナイヤツ」…どっち?両方??
(2011 12/07)

自由と猥雑と戦争と


歌が大好きナポリターノ?が黒シャツ隊のバイクに轢かれた陰惨なシーンから、こんどは将軍が視察に訪れる祝祭的なシーン。対照的…でも作者プラトーヴィッチにとってはどっちも似たようなものなのかも…というのも…

そのヴェスタ将軍と同席したのが、もうすっかりお馴染みの大佐・少佐・太った司祭に老いぼれホジャ、それにスパイで将軍より勲章持ちのアギッチという面々。その中でアウグスト少佐は(前も言ったと思うけど…)この戦争についてなんらかの小説を書こうとしている。少佐と将軍は旧知みたいで、戦時としてはかなり際どい話も交わす。

そういった中に、書こうとしている小説のテーマでもある自由はもう存在しない。あるのは猥雑と戦争だけだ。そしてこの2つは実のところ同じなんだ、という少佐の言葉がある。それを証明するかのごとく、町中が歓迎ムードのこの将軍来訪時にもせっせと性交している兵士がいたりする。そしてマリッチの方は、またしても共産主義をアジり、そしてまたしても肯定的無視?を受けてしまう…

で、一つわからなかったところ。このシーンの冒頭からなんだか町中石灰で白く塗りつぶし始め、その白さがやたらに強調されているのだが、何の象徴かな?清潔さをアピールするファシズムへの皮肉…だけでもないかのような祝祭ぶり…
(2011 12/13)

プラトーヴィッチの幻想の描き方がいまだ自分にはよくつかめないところもある。マリッチがろばに変身するくだりや、サルヴァトーレの戦車が走り出すくだりの幻想は、これまでの筆致とあまり変わらずリアリスティックに感じるが、これが例えば「百年の孤独」のマジックリアリスムと同じ物なのかというと、それもなんか違う気も。ひょっとして、幻想と現実の境をとっぱらってしまえ、という考えがプラトーヴィッチにはあるのかも? それがどんな思想と通じるかもよくわからないけれど。
(2011 12/14)

メタフォルとは、そして自由とは


「ろばに乗った英雄」…に乗ったというより、ろばになった?或いはろばとともに?
というのは、なんだか主人公?マリッチが時には尻尾が生えてろばになろうとするから。ろばは何の象徴なのだろうか?

さて、象徴(メタファー或いはメタフォル)といえば、今日読んだところに少佐が町から去るマリッチに「さらば自分のもう一つの側面。われわれはメタフォルなんだ」というようなことを思うところが出てくる。
メタフォルとは何か。前の「自由と猥雑と戦争と」的に言えば、猥雑がマリッチ、少佐が戦争…でも、この二つは実は同じこと…ならば少佐にもろばの尻尾が生える可能性も?
では、自由は…ひょっとして、何のメタフォルにもならないのが自由なのかも。そう考えると、少佐は(実現は無理だとは知っているけど)猥雑のメタフォルであるマリッチを自由に近づけようとして町から逃したのかも。でも、現実のマリッチ見れば自由というより、なんかのプロパガンダに取りつかれているだけのように見える…

さて、作者としては、書くこと自体が「自由にはならなくとも、自由を目指すプロセスとしての人間」を描けるのでは、と期待している…のかも。そうだとすれば、詩人嫌いのヴェスタ(ベスタ?)将軍と少佐の対決?も気になる…でも、そんな将軍も会議中に「ミャウ」とかつぶやいてしまうのが、この小説なんだけどね(笑)。
(2011 12/15)

英雄の帰還、少佐の逃亡


さて・・・「ろばに乗った英雄」は読み切ったのだが・・・
マリッチの逃避行はあるんだかないんだかよくわからない謎のバルチザン五百一隊目指していくのだが、その途上?二人の女を身重にしたり。で、そんなことやっている間に、イタリア(モンテネグロのだけかも?)が降伏し解放バルチザンが町を占拠、そしてその解放バルチザンにマリッチは捕えられて、ろばに乗って「御帰還」となる。
一方、少佐は歩いて逃亡・・・ということだけど、最後の方になるともうマリッチなのか少佐なのか混沌としてくる。これは書き手の少佐の意識が薄れてきているのが原因なんだろうけど。 
とにかく、まだわからないことが多く残った小説ではある。ま、一応「読了」ということで・・・ 
(2011 12/18)

グルパン・マリッチ考


あまりにも「ろばに乗った英雄」のまとめが粗筋追うだけだったので、少しくらい主人公マリッチについて考えてみようと…

でも、結局グルパン・マリッチという人物は何の「メタフォル」だったんだろうか?前の日記の「メタフォルとは何か」で、メタフォルとは結局何かについてのメタフォル(類似的象徴?)ではないか、と書いた。ではそれが正しいとして、何の象徴?。自由?不自由?尊厳ある人間?尊厳ない人間?自由を求めてさ迷い歩くけど、結局不自由な尊厳ない故に尊厳を与えなければいけない人間?むちゃくちゃ…ミャウ。

物語外部に立つ読者である自分としては、こんなにみんなにあてにされない人間という設定も非現実、だと正直思う。現実のざらざらした感触と、非現実の童話的な感触が折り重なって隣り合っている…そんな人物でもあるし、作品でもある…まとまりない?考えなかった方がよかった?考えがぐるぐるぐるぐるグルパン・マリッチ…

ああ、なるほど、マリッチは人間の考えることそのもののメタフォルなのか…なんて。
ところで「実際の」マリッチはどこへ行ったのか?作品中ではローマに逃げたことになってるけど…
(作品中というのは、言ってみれば少佐の頭の中の妄想中。「実際の」は、事実誤認(等)でファシストとかと間違えられて捕えられた人々。戦争直後の混乱期にはそういった人達が数多くいたはずだ。その右代表が、マリッチ、では?)
(2011 12/19)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?