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「奴隷商人ソニエ 18世紀フランスの奴隷交易とアフリカ社会」 小川了
山川出版社
奴隷交易疑似体験
日曜日に買った本のうち、奴隷交易の商人の本を(買ってから夜チビチビはやっていましたが)。今のところは奴隷交易全般の話を。船員のうち1割は死んでしまうとか、船は時代を経るにつれ小型化するとか、いろいろ。奴隷達の健康維持の為、決まった時間に甲板上に連れていって運動させる。その時には暴動にも注意する。
現代では批難の対象の的である奴隷交易。実際のところはどうだったか。
(2013 11/07)
1、2章読み終え。ソニエが活躍したフランス革命直前の奴隷交易に対する思想界は、一方でフランス国益重視の擁護論(アフリカ人自体が奴隷を生産していてこちらは買っているだけ)、また一方でコンドルセのような奴隷制廃止の論と割れていた。それは「百科全書」の奴隷交易と黒人という2つの項目の書き方の差異にも現れているという。
ソニエ自身の話は3章以降で。
(2013 11/10)
砂州の通過とサン・ルイ島
第3章になってやっとソニエもセネガルはサン・ルイ島に着き、彼の記述も始まる。サン・ルイ島はセネガル川の河口(ダカールよりは北)にあるのだけど、そこに入るのには危険な浅瀬を通過しなければならない。そこで現地の水先案内人を雇うことになる(彼らは奴隷ではない)。ここで十分な心付けをしておかないと、転覆などした時に助けてくれないという。
サン・ルイ島では王立のインド会社?より他社の方が利益はよく上がっていた。また混血の人々もいたという。井戸は塩水しか出ず遠くから運んできたという。
ソニエの記述の中にも「これから人間性におとる行為をしにいくんだ」とかいうのがあります。この時代の世論は二分されていて、一方では奴隷交易反対の論もあり、一方では国益重視の論もあった。そして奴隷交易自体は最盛期になっていた。革命前後に関わりなく。
(2013 11/11)
ソニエの記述と抑圧
ソニエのセネガル川上流奴隷交易記から。いろんな活躍とか失敗とかあって結局儲けはなかった。その一因としてソニエが考えているのは、セネガル総督が防衛以上の攻撃を禁じていること。これにより現地の様々な民族が襲ってくることになる。しかも総督は彼らからリベートがある…総督側からすれば、捕虜(ここではまだ奴隷ではなく捕虜身分)は商品であり、無闇に攻撃して無駄に減少するのは避けたかった…というのが小川氏の解説。案外に対等?というか情けないですね。でもこの「商品」が人間から他の物になった時植民地化が始まるとすれば…なかなかに複雑。
交易でよく出てくるなんか貨幣代わりにもなっていたのが鉄棒とギネー(インド産キャラコ・反物)。
(2013 11/12)
囚われの身
第3章読み終えたところの最後の方に、ソニエはモーロ人の囚われの身になったからわかる、捕虜達に「アメリカに行って今よりよくなるんだ」と親身になって接すればよい、とある。まあ、これを後の我々が批難するのは簡単だろうけど、ソニエの捕虜はほとんど逃げ出さなかったとも書いているし…古今東西問わず人間というものはこういう欺瞞?と欺瞞?の接点に立たされているものなのだろう。
捕虜側から見てみれば、精神分析における転移、あるいはこの時代からアフリカにも未来という切り離された時間観念が出来上がりつつあった?などなど、最近読んだ本に絡めて。
(2013 11/13)
初代奴隷と家内奴隷
第4章はセネガンビア(セネガル+ガンビア)地域内の奴隷について。戦争とかなんらかの理由で奴隷になった人を初代奴隷、その初代奴隷が結婚して産まれた子供を家内奴隷という。この二つは明確に異なる。初代奴隷の方はまた売り飛ばされたり手荒なことをされたりすることもあったが、家内奴隷の方は主人側で売り飛ばしはできず食事などは提供しなければならない(非常時以外)。
どちらの奴隷も週二日と夕方からは自由時間なので、自分の畑で働くことが多い。奴隷によっては上手く働いて財を為すものもあったという。また奴隷が奴隷を手に入れて働かせることもあったという(ただし奴隷が為した財は当人だけのもので、子供に相続はできない)…リヴィングストンの報告から。まあ、こうしてみればこの地域の奴隷が奴隷身分のままでいたがったのもわかる。
今の自分よりひょっとしたら自由?
奴隷制あれこれ
ソニエ(は出てこないけど)の本の続き。1世紀下って19世紀末の史料を著者がセネガルの図書館で研究した結果から。
巡回商人に払うものがなくなると、そこの村長は近くの村の村長とはかって、その村の村民を奴隷として捕まえて(もちろんそこの村長一家はぬきで)しまう。ひどい時は自分の村の村民を捕まえてしまうとか。あるいはまた(そんなにない例らしいのだが)親子でお互いをヨーロッパ人に捕虜として売ろうとしていたり。この地域に限らずアフリカでは土地より人口の割合が小さいため、人数がいればいるほど耕す土地も増え、富も増えるという前提があるのでは、と小川氏。女性奴隷の方が人数も多く、値段も高かったのも同じ理由だろう。
上記の村同士の奴隷獲得合戦にしても、お互いに取り合いしているのが実情だという。奴隷になるか否かは運・不運で立ち位置が変わることも多かった。そんなノリでヨーロッパ人の捕虜として奴隷船に乗ったら「攻守の入れ替わり」はもはやできず行ったきりになってしまう。船に乗ったら陸地が見えなくなってからヨーロッパ人に食べられる、と思われていたらしい。
(2013 11/14)
ヨーロッパ人の捕虜となった黒人の反乱の話も。ウォロフ人による要塞内と船上の反乱。彼らはチェッド(武士)?日本の武士というよりイスラム圏のマムルーク?
(2013 11/15)
アユバの生涯
昨夜「奴隷商人ソニエ」を読み終わり。ラストに登場したのは、アユバというフルベ族のイスラム指導者?の息子の話。捕虜を2人連れて売りに行った帰りに、敵対する民族の地域に入った為、逆に捕らわれて一緒にいた通訳とともに捕虜になってアメリカのタバコ農場へ売られてしまう。なんとか脱出してそれからいろいろ幸運が重なってイギリスへわたり国王にまで会ったりして、また故郷に帰ってくる(通訳も別ルートで帰ってきて再会する)…のはいいのだけど、帰郷してからはイギリスの為に奴隷交易に協力したというのがまたなんというか…まあ、それだけこの地域では奴隷制が普通なんでしょうね。
でも、19世紀に入るとヨーロッパでは奴隷制廃止に変わってくる。これは産業社会になり奴隷交易という方法がコストかかって古くなったから、人道的理由はおまけ…とガイアナ出身の黒人の研究者は言及しているという。
とにかく、奴隷制というシステムには、奴隷に対し人としての立場とモノとしての立場と背反関係が常に成り立っていて、そこに様々なことが発生する、というのがこの本を貫く考え。
(2013 11/16)