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「オコナー短編集」 フラナリー・オコナー
須山静夫 訳 新潮文庫
オコナーについては、次はちくま文庫で出ている「全短篇」2冊かなあ。「賢い血」(長編第1作)は随分前によんだけど、さっぱりノックアウトだったなあ・・・今読めば、でも少しは・・・「烈しく攻むる者はこれを奪う」(長編第2作)も新潮社で訳されているみたい。研究書も読んでみたいし・・・
(ちなみに、間違いやすいところを一つ。今、岩波文庫(他?)で出ている「フランク・オコナー短篇集」のオコナーは全くの?別人。フランク・オコナーはアイルランドのチェーホフと呼ばれているような短篇の名手らしい。なんだか、この二人の「オコナー」、生没年も割と近いし、同じような印象を与えがち・・・(アマゾンでもなぜか?両方とも買っている人多いみたいだし)・・・ちなみにこっちは、フラナリー)
オコナーの「川」
昨日買った新潮文庫版(全短篇のちくま文庫版とは異なる)の「フラナリー・オコナー短編集」の中から「川」という短篇を読んでいた。
母親が無神論者的な、やや恵まれた感じの家庭に育ったハリー(だったっけ?)という少年が、何故かキリストの御国の「川」に入水(洗礼?)する、という、これまたなんだかわからない話。実際、少年にこの日起こった出来事(豚が彼を蹴飛ばしたことや、イエスの生涯の本を見たこと、川の中で説教者が彼を川の水につけて「洗礼」したこと)で彼の精神に何が起こったのか読者には全くわからないのだが、周りの人々の世俗的、対象としては「小説的」な中で、この少年の行動だけはなんだが直線的な、対象としては「詩的」な印象を受けます。ひょっとして書いているオコナー自身も彼がなんでそんなことをしたのかわからないのかも?
というわけで、紆余曲折的な小説の記述の中で、彼の行動の軌跡が一条の直線となってこの小説を貫いていく。
「解説」にあったオコナーの言葉(抜粋)
・・・希望のない人間は小説を書かないということである。・・・希望のない人間は小説を書かないだけでなく、小説を読みもしない。そういう人たちはどんなものでも長いあいだ見つめることをしない。勇気が欠如しているからだ。絶望に至る道とは、いかなる種類の体験を持つことも拒絶することである。そして、もちろん、小説は体験を持つことに至る一つの道である。
(p247)
現代は、その最悪の面を言うならば、絶望を飼いならし、絶望とともに幸福に生きることを習いおぼえた時代である。
(p248)
(2011 12/18)
火と追われる者
「火のなかの輪」。登場人物がなんかみんな追われている…というような表現になっている。
牧場主側の夫人はそれでわかるんだけど、遊びに来て様々な悪さもする少年達の仕草にも「追われているように」などという比喩が使われているのは何故だろう。夫人が日頃恐れていた火事を、少年達は引き起こす。
火をつけるものと、火をつけられるものの恣意性・円環性(火をつけるものが、次には火をつけられるものになる、という意味)を、最後の聖書からのほのめかし、或いはタイトルは現しているのかな?
でも(って接続詞でいいのか?)、オコナーの語り口というのも独特だ。いつものわたしはここにいますよ、というある種不変な語り口…わたしというのはオコナー流「神」にほかならないのだけど。
月と追われる者
続けて、「黒んぼの人形」を。 ここでは、まず奇妙なオコナーの表現を二・三、最初の方から引用してみる。
月のおもては重々しかった。それは部屋の中を見つめ、窓のそとでは厩の上を流れ、自分自身を凝視しているようであり、若者がおのれの年老いた姿を眼前に見ているときの表情に似ていた。
(p72)
・・・(前略)・・・彼らと向きあっている月は灰色に透きとおり、指紋より濃くないほどで、全く光を失っていた。
(p77)
老人と少年と双方ともに、幽霊を待ちかまえているふうに前方を見つめていた。
(p77−78)
なんか、月の比喩が多いのだが・・・
第一の文、「若者がおのれの年老いた姿を眼前に見ているときの表情に似ていた・・・」って、そんなもの見たのか(笑)。作者も自分もそんな光景見たことないはずなのに、なんだか大昔にそんなことがあったように感じて納得してしまう。そしてここは、物語のキーにも触れているところ(少年と老人はなんとなく似ている)でもある。
第二の文、さっきの月が追いかけているわけだが、「指紋より濃くない」というのが印象深い。月と指紋を対比させるのも意味深。
そして第三の文、第一の文で読者の心中に起こった密かな驚きと合わせて印象を引き延ばすような文章。そしてこの後、幽霊の比喩が登場し、その印象を更に引き延ばす。そういう構成。ここに挙げた文は先にも述べた通りこの短篇の最初の方なので、まだ二人にはこの後いろいろ起こる出来事はわかっていない。なのに、後の効果を先出ししてしまったかのような、しかもその先出しを当然だとしているような、そんな書き方。
さて、その「いろいろ起こる出来事」とは、言ってみれば老人と少年のアトランタ日帰り見物。少年は「アトランタで生まれた」と言い張り、老人は「少年に都会というところを全部見せてやって、たいしたことのないところだ、と認識させてやる」と自信満々。
だけど、二人はアトランタで迷ってしまう。いろいろ迷った挙句、少年は一人になってしまい、駆け出しておばさんを怪我させてしまう。このおばさんが「警察を呼べ」と叫んでいるところにやってきた老人。追求されて「この子は私の子ではない」とつい言ってしまう。ここはペテロがイエスを否認した故事を連想させる仕掛けになっていて、前半の「驚き」の引き延ばしがここに結実するわけだ。
とにかく、なんか子供の頃に(誰しも、とまでは言わないまでも)似たようなことあったような、という感じのある意味小さな出来事を、大きな舞台装置にぽんと出す・・・のは、前の短篇との共通点(少年という共通点もあるけど)。
最後に引用するのはこんな文章。
季節がなければ時間とはどんなものになるか、光がなければ熱はどんなものになるか、救済がなければ人間はどんなものになるか、今それがわかったような気がした。
(p102)
わかりますか(笑)。
(追加、少年はアトランタで生まれた、らしいけど、では老人の方は? アトランタで何かあった? ここを考えてみるのも面白い。それと、少年の出自(家出した娘がいきなり連れて来た子供・・・少年が1歳の時にその娘(少年から見て母親)は亡くなった)が、老人の少年に対しての態度にどうでているのか? などなど)
(2011 12/26)
作家は登場人物の行動を予測できるのか?
「善良な田舎者」。こういうタイトルの時は、だいたいがほんとうは「善良」でないことが多いのだが、今回もそんな感じ(笑)。
「そんなに単純になれない人間もいますよ」と彼女は言った。「あたしはとてもそうなれないとわかっています」
(p142ー143)
この言葉は中心として描かれる哲学博士号を取った義足のハルガと、「善良な田舎者」聖書のセールスマンの二人を導く外側の人物(フリーマン夫人)。実際に何が二人の中で起こったか知らない外側でこういう会話をする…そのいわば上っ面な会話が、中心場面の芯を捉えているのが怖い。
ハルガは(漠然とした想像だけど)オコナー自身の似像であるみたい…だから、オコナーがこの作品書いている時は文字通り自己の精神をほじくりだす痛みを感じたのに違いない。
そして、標題。 前の日記で、「オコナーにも登場人物が何故このようなことをしたのかわかっていなかったかも」みたいなことを書いたが、この「善良な田舎者」については、作者の貴重な証言が残っている…それによると、作者オコナーが中心場面であるハルガの義足を聖書セールスマンが盗むことを「知った」のは、その箇所の十行前に来た時なんだそうな。そしてそれは不可避である、と悟った、という。後でも少し考えてみたいと思うけど、非常にオコナーらしいな、と思う。
(2011 12/27)
「高く昇って一点へ」と、「啓示」
どっちも黒人に対するアメリカ南部の白人の感情が題材となっている。
前者では、黒人と白人が同じバスに乗ることになった直後の情景が描かれていて、そちらも貴重。ジュリアンは作家志望の青年で、黒人に対し古い感情を持つ母親に困っているが…母親は乗り合わせた黒人女性の子供にお金をやろうとして、逆に毅然と拒否される。ジュリアンはそんな母親に説教しようとするが、母親はすぐ倒れてしまう…という筋。最後の海の潮に例えた母親とジュリアンの場面は印象的なのでまた引用しといてね。ジュリアンの古い家に対するアンビバレンツな感情も深く考える余地あり。
… 潮のような闇が彼女を彼からさらって行くかと思われた。
(p171)
「高く昇って一点へ」から。この直前、ジュリアンの母親は過去のたぶん彼女の昔の記憶から来た言葉を漏らす。その記憶と潮という表現が絡まって、とある都市郊外のバス停が、潮に満ちた海に変容する。読者の中で。
「啓示」は、ある意味で模範的な白人農場の夫人が、病院の待合室で見知らぬ娘に「いぼいのしし」と呼ばれて本をぶつけられる…という話。娘の方に何があったのかはよくわからないけど、夫人は最後には何かを見つけたみたいだ…
(2011 12/29)
「パーカーの背中」
彼には自分の魂が、事実や嘘を組みあわせた蜘蛛の巣のように思われ、そんな魂は彼にとって全然大切ではないのだが、そういう彼の考えにもかかわらず、それは必要なもののようだった。
(p240)
「同感!」なんだけど、最後の「必要なもののようだった」と言っているレベルはどこだろう。パーカーか作者かあるいはそれ以上?か。
ストーリー的には、このパーカーという一人の男が、またなんでかよくわからないけどサラ・ルツという女性と結婚して、それから(それまでも彼の憧れであってこだわりであった)入れ墨を背中にしてもらう。それはキリストの入れ墨。これをした時パーカーはずっと二つ目がついてまわる、と確信する。でも、家に帰って来て、サラ・ルツに「偶像崇拝者は家には入れない!」と箒で殴られる・・・偶像崇拝についてのあっち?の人のこだわりがいまいち自分には実感できないのだけど・・・
オコナーの短篇は、極めて平易な言葉で綴られながら、永久にその中には入ることはできないのでは、と思うくらいの難しさがある。もちろん、キリスト教の世界外で生きている自分(及び多くの日本人)にとっては、外側からみることにはなるけれど、さて、キリスト教世界内に住むあっち?の人もどうなのか。なんか入り込めないような感じは受けるのではないか?とは、今思うところ。でも、そのつまづきを感じることこそオコナーを読む、ということではないか、と。
(2011 12/31)