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「九夜」の詩

以下の記事の、詩に関する箇所の抜粋

「九夜」とフランシス・ポンジュ

「九夜」から

 つまり、「カントゥヨン」は、私にとっては、蝸牛の家であると同時に、世界における彼の重荷、どこにいようとも彼が運び、雨宿りに役立つ殻、死によるのでなければ解放されることのない彼ら自身の身体、彼にとってのここ、そして彼にとっての永遠の今となっていった。「カントゥヨン」は私には蝸牛の痕跡になっていったのである。
(p114)


上の文章は続いてこう語られる。

 そのイメージは私に蝸牛たちについてのフランシス・ポンジュのテクストを思い出させた。「今の君として君自身を受け入れなさい。君の欠点に応じて。君の寸法に従って」。
(p114)


フランシス・ポンジュの蝸牛の詩

 彼らの分泌そのものが、形をなすようなぐあいに産み出される。彼ら自身に対し、彼らの欲求に対して外部にあるものの何一つとして、彼らの作品ではない。彼らの身体的存在にとって-他方-不釣合な何ものも。彼らの存在にとって必然でないもの、必須でないものは何もない。
(p28-29 「フランシス・ポンジュ詩集」阿部良雄訳 小沢書店)

「九夜」とアンドラージ

ドゥルモン(カルロス・ドゥルモン・ジ・アンドラージ)の「哀歌一九三八年」から。

 君は廃れた世界で喜びもなく働く、/そこでは形式や行為がいかなる例を閉じ込めてしまうこともない。/君はあくせくと普遍的な身振りを実践し、/君は暑さ、寒さ、金欠、性欲を感じる。/(…)誇らしい心で、君は自分の敗北を告げようと/そして集団的な幸福を次の世紀へ先送りにしようと急ぐ。/君は雨を、戦争を、失業と不公正な分配を受け入れる/君一人ではマンハッタンの島を爆破することはできないからだ
(p160 「/」はたぶん改行?)


そういえば「九夜」の現代パートの冒頭は2001年のニューヨークテロから始まっていた…
再び「九夜」から

 戻らなければならないと理解したとき、かなり遠く離れていたので、旅する気力はもう残っていなかった。どんな動物も、たとえ地を這う蛇であっても、なめくじや蝸牛であっても、その生涯で一度であっても、一本の樹、一つの石、空の一部を目にして、宇宙の全体を見て、一瞬のうちに、何であるのか、どこにいるのか、周囲で何が起こっているのかを理解するものだ。
(p188-189)


蝸牛がこれまでの自分の痕跡、軌跡を全て一望に理解する瞬間であるとか。その時、蝸牛が元の場所、安全な場所に戻ることができないと察した場合はどうか。
「一つの石」と引用して気づいたが、前に引用していたアンドラージの詩に、そのようなものがある。

 道のまん中に

 道のまん中に石がひとつ
 石がひとつ 道のまん中に
 石がひとつ
 道のまん中に石がひとつ。

 けっして忘れはしまい こんなにも疲れはてた
 ぼくの網膜の一生におきたあの出来事を。
 けっして忘れはしまい 道のまん中に
 石がひとつ
 石がひとつ 道のまん中に
 道のまん中に 石がひとつあったことを。

(p144-145 集英社版 世界の文学 第37巻「現代詩集」より ナオエ・タケイ・ダ・シルバ訳)


このp188-189の文章はこの詩を踏まえているか、呼応し合っている。

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