見出し画像

「高い城・文学エッセイ」 スタニスワフ・レム

芝田文乃 訳  スタニスワフ・レム コレクション  国書刊行会

「高い城」

 記憶は、私が与り知らぬ完全に受動的な隠し場所でも、容量のある空間でも、隙間や隠しがたくさんある心の机でもなければ、私でもない。
(p7)


この私ではない記憶そのものを丹念に描き出していく、というのがこの「自伝」のスタンス。だから、誰それがレムにとってどのような人かということはほとんど書かれずに、その対象人物や物体の、レムの記憶によって図らずもライトが当たってしまった微細な特質が拡大して映る。これはある水準まではマルケスの自伝「生きて、語り伝える」も共通しているのだが、どこかで明確に分岐していく。

 けれども、コウノトリ説のような真っ赤な嘘であれ、以前の見解がすべて跡形もなく放棄され消え去るわけではない。そのうちの何かがわれわれのなかに残り、次のものと組み合わさり絡み合い、相変わらず存在していく。
(p27ー28)


レムは今作品の記述対象となった記憶を丹念に検証していく。自身の子供時代の変な信念(物もうっかりしているから?脅かせば簡単に複製を作ることができるとか…こういった変な信念は誰しも何かしらあるに違いない)の残存物を探し求めて、彼は書くという行為を行うのだろう。
(2015 05/05)

高い城第2、3章
レムのなんだか風変わりな幼年時代の回想。子供向けのお話が、作り手側では単なる教訓話だと思っていても、受け手の側ではそれが様々な葛藤を産み出しているという指摘が興味深い。しかし、どうやってこんなに幼い頃のことを覚えているのだろう(実際がその通りかどうかは別にして)。
(2015 05/08)

レムのギムナジウム時代


「高い城」は標題部分。ギムナジウムの悪ガキどもの描写が生き生きし過ぎ?

 作った人の意図に反する目的に使うことができないような物体はないことを私たちは行動でもって証明した。
(p69)


レムらしいかなり皮肉混じりの文章。
また、作品タイトルにあるルヴフの高い城もギムナジウムの授業が閉講になった時に遊びに行った場所として出てくる。

 それはキリスト教の祈りに満ちたささやかな天国というより、涅槃だった。
(p71)


このあと、レムがフランス語の文法に苦しんだとか、プルーストには全く歯が立たなかったとか、なかなかに意外な告白も出てくる。
(2015 05/10)

本来の使い方とは別な…


今回のキーワードはこれみたい…レム「高い城」から。

 自分の存在のレールから脱線した、使い古しの、見捨てられてどこかをさまよっている物への奇妙な感傷がある。
(p105)


このレムの回想録は徹頭徹尾この精神につらぬかれているみたい。前も別の使われ方云々という文章を引きましたが。
次の章では、これまたこうした例だと思われる架空の証明書の束の作成が語られる。まだ、その途中…
なんか昨日読んだところで、まだ引きたいところあったんだけど…
(2015 05/12)

身分証明書小説?


架空の身分証明書を作成し続けていたというレム「高い城」から。

 なぜなら、そのような徹底的放棄と全体的無視のおかげで、私は全世界を沈黙でもって表せることを立証したのだ!
(p121)


文学的表現はもとより、通常文章まで放棄して形成された世界。後に書くメタ小説よりある意味過激?
こうした身分証明書作成をギムナジウム授業中に行い、家に帰るとまた別のノートを出していろいろな発明に没頭していたという。それが入れ替わることはなかったらしい。
続いて抽象芸術を論じているところから。

 この分野の名人かつ先駆者は、二人の偉大な彫刻家=破壊者であり建設者でもある〈エントロピー〉と〈エンタルピー〉だ。
(p141)


要するに自然の拡大して見せる様々な表面の様相が、抽象芸術より完璧な抽象芸術だ、ということ。抽象芸術家は常々にこの「二人」に敗れることを覚悟してそれでも挑まなければならない、という。
なかなか進まないけど、「高い城」自体はもう少し…

「高い城」は読み終えたが…


この後どうしよう?
「偶然と秩序の間で」は自伝で関連してるから引き続き読んでいるけど…
とりあえず「高い城」のまとめを…

最後の章は今までと変わり、学校の軍事訓練の様子を。第二次世界大戦の直前のある意味ではのどか(なのか?)な訓練。その頃のことをレムは頭上の大きな足には気づかずに、日常の心配事の周りをぐるぐる回っている蟻のようだった、と表現している。
続いて、エピローグから。

 記憶から出しぬけに、あたかもひそかに引き出されたかのような残骸や、色鮮やかな染み、誰かの口の輪郭、影や音などがどうしても解釈できないときは、あきらめるしかないーこれは何か重要なことと結びついていたはずだ、かつて私の運命がここを通ったはずだ、という確信がやたらにわき上がるのだが。
(p158ー159)


長い引用になったが、記憶と自分は友人同士という結びで終わる「高い城」。レム版「失われた時を求めて」は思い出す現場に戻って、終わる…
この後の自伝第二部はレム自身の強い意志により未公開…
(2015 05/14)

偶然側にかなり寄った「偶然と秩序の間」


「偶然と秩序の間」の方は、最初の読み味?としては偶然側にかなり近い気がする。父親が(まだレムが生まれる前に)処刑されそうになったが偶然通りかかったユダヤ人の床屋?さんにとりなしてもらった、とか。この床屋さんが通りかからなければ、レムは生まれなかった…

こちらの伝記はレムの作品に結び付いた体験を提示するのが目的らしい。ソール・ベローの「サムラー氏の惑星」を引いている(良い作品だが、当時の緊迫感に何か欠けている、とレムは評する。部分は書けているが、全体として伝わってこない、と)後で、レムの「種を主題にした作品」論が出てくる。個人とかある一社会集団を描くのではなく、人間種としてどうしていくのかという…だからSFの要素を入れたのだ…という論の進みなのかと思えば、なんとなくぼかしてある感も…
自分としては幼い頃のことをここまで覚えている自体に驚きを感じるのだけど…
(2015 05/15)

「偶然と秩序の間」を昨夜読み終えた。これは自作との関係において結び付きのある自身の出来事や考えなどを書き連ねたものだけど、いい読書案内にもなっている。その一部はこのレムコレクションにも入っているのだから…国書刊行会もほくほく?
クラクフでレムはポーランド中に送る海外新刊のチェック・配送などの仕事をしていた時期があって、そこでまた相当数の本や科学論文を読んだという。そこでレムにとって重要となるサイバネティクス理論とも出会った…

「偶然と秩序」に関しては、レムはある何らかの秩序というか理論を自分から組み立てていくのが好みなのか。自然は偶然の側から、作者の秩序の側から?… 
(2015 05/16)

レム流「城」の読み方


レムとカフカってあんまりつながり意識したことなかったけど、レム自身はかなり意識しているみたい。
というわけで、「城」に触れているところから。

 この作品は、いわゆる超越性のカリカチュアとして、つまり天国を故意に地上へ引きずり下ろしパロディ化したものとして読めるけれども、また全く逆に、堕落した人類にとって許された唯一の超越的イメージとしても読むことができる。
(p232)


二つの違いがあんまりよくわかっていないのだが、方向性が上から下か、下から上か、の違いなのかな。とにかく、こういう視点は読んでいた時には自分には全くなかった。内部構造が迷路化しているのに気をとられて、全体がどこに位置しているのかは考えていなかったなあ。
(2015 06/05)

トドロフとドストエフスキー


昨日読んだ分。
トドロフの「幻想文学論」に対しレムは徹頭徹尾批判する。レムはこの時期の構造主義を、いい方向の萌芽は認めつつも非難していた。「他者の記号学」でトドロフに接した自分にとっては(「幻想文学論」は邦訳あるみたいだけど未読)…

 しかし、文学は二律背反をー戦略的に置かれている限りー逆に利用することができるのであり、そうした二律背反こそ、まさに文学にとっての裏の利益なのである!
(p267)


論理学に寄り過ぎたトドロフに対する批判とはまるで反対方向から、レムはマツキェヴィチのドストエフスキー論を批判する。こちらは生身のドストエフスキーに寄り過ぎなのだという。でも、レムの好意が感じられるのは後者なんだよね。
ちなみにこのレムの論文が書かれた時代はまだソ連等ではドストエフスキーは半ば「許されない作家」だったらしい。
(2015 06/06)

ウェルズとボルヘス


今日のレムはウェルズとボルヘス…

 『宇宙戦争』の執筆とわれわれとを隔てるおよそ九十年足らずの間に、文明の状態は一八〇度転換したことは正直に付け加えなければならない。
(p308)


ウェルズの時代はイギリスヴィクトリア体制の只中で繁栄し硬直化した時代だった。ウェルズはそれに対し批判していく。一方現代は常に揺れ動く留まらない世界である…と書いたけど、レムがこれ書いてた時は、自分などは東西冷戦が終わるとは思っていなかったけど…ちなみに珍しく?褒めモードのレムも一つ批判を加える。それは火星人に文化が欠けているという指摘。

 知性は、もしそれが本物の知性ならば、生存する特権を与えてくれた生命を維持するために、自らが生産した装置を超えていなければならない。したがって、知性は好奇心旺盛でなければならず、常に無私の精神を若干含むという性質がある。
(p300ー301)


この方向性を加えて、レムが「宇宙戦争」を書き直したのが「ソラリス」なのではないか、と解説にはある。

一方ボルヘスの方では、ボルヘスの作品構造を「互いに相容れない対立物を一致させる」(p316)こととする。正統と異端、ユダとキリスト、裏切り者と裏切られた者、偶然と必然(「バビロニアのくじ」)などなど…レムは単独で読むと精神の閃きを感じるボルヘスの作品も、作品群全体を一気に読むと反復ばかりが目立つとしている。それとともに、ボルヘス読んでいると感じられる閉ざされてそこは自分が入っていけない世界なのではという直感を、一番最後に示している。
メタフィクションという点では共通するボルヘスとレムだけれど、どうだろう、それほど共通するところは多くない?
(2015 06/07)

ロリータとドストエフスキーと最後の謎

レムはナボコフ「ロリータ」。これもまだ読んだことがないんだけど…もちろんドストエフスキー以上にソ連では禁じられていた作家。ポーランドでもこの作品は当時は刊行されていなかった。
(2015 06/09)

レムの「ロリータ」論。ハンバードはスタブローギンやスヴィドリガイロフの後継者かどうかを検討する。ある意味世論を超越しているドストエフスキーとその登場人物に対し、常に何か社会的なものに反応しているようなナボコフとその登場人物。レムがドストエフスキーに最高の畏敬の念を持っているのもわかるが、19世紀と20世紀の違いもあるのだろう。
さて、レムが小説最後の謎として提出しているのは、(他の男との)臨月を迎え、やつれ切って大人になったロリータと再会したハンバードがロリータを愛していることを感じること。ハンバードは少女愛症者ではなかったか。この変換を論じているところは原作読んでない自分にとっては手が届かないところだったけど、レムはここにこの作品の成功も失敗も内包している、と感じているのではないか。

続いてはちょっとだけ踏み入れた「ストーカー」論。まだ作品そのものではなく、ウェルズ「宇宙戦争」以降の高度知性生命体接触SFを一刀両断しているところ…で、ここにちらっと「山椒魚」とあるのはチャペックへの言及かな。
(2015 06/10)

架空書評のような趣き

レムの書評群。ウェルズもナボコフもストルガツキーもディックも読んでないこともあって、なんだか、レムの架空書評の続きのような気もしてくる。もちろん、事態は逆なわけだが、レムの場合最初に作品ありきでは必ずしもなく、レム自身の分析軸があってそこに既存の作品を載せていくという手法もその印象を強める。
というわけで、ストルガツキー「ストーカー」論から。この作品は原題を「路傍のピクニック」という。こっちの方が作品内容(思想構成上の)はうまく伝えていると思うのだが。

 人類史上の転機となる瞬間は少なくない。そして、その瞬間のそれぞれは、人間本性を極端なかたちで強調することを特徴としていた。
(p372ー373)


レムは人間社会全体をまるで一人の大きな人間であるかのように捉え、重大な局面を迎えた一人の人間がとって(見せて)しまいがちな両極端さを、社会全体に投影させているかのようだ…それはともかく、確かにそういう対比させた小説はたくさんあるような印象が…

 理解できず、取り除くこともできない対象も、その代わりに消費することは可能だからである。
(p374)


これなんか、現代消費社会を適切に表現しているように思えるのだけど…「ストーカー」作品内では、何者かが〈来訪〉した痕跡と思われている〈ゾーン〉にバスツアーが組まれるという逸話が出てくる。
あんまり、この論文でのレムの論点とは関係ないところばかりになってしまったけど…
残ったのはディック論…
(2015 06/11)

ユビキタス社会?


昨夜レムを読みきってしまった。最後はディック論。
この作家も読んだことないのだが、レムは「ユービック」という作品を主に取り上げながら、現実と虚構、過去と未来が渾然としたエントロピーが増加していく世界を描いていく。ただ、レムによれば、ディック自身もその先もそれを生かし発展させることができなかった。その意味でディックは何かの「前ぶれ」ではあったと論じている。

「ユービック」とはどこにでも存在するもの、という言葉からのディックの造語らしいのだが、そういえば近年話題のユビキタスという言葉の語源も確か同じ。ユビキタス社会が徹底すればディック的な世界になる?
最後は、書き手を育てるのは(欠点に寛容なのではなく)注意深く読み進める読者だ、という言葉で閉じられる。果たしてレムにとって自分はそのような読者だったか…なわけない…
(2015 06/12)

補足:若島正氏の「乱視読者のSF講義」から

今読んでいる若島正氏の「SF講義」の第一部の最後がディックとレム。レムのディック論とディック自身の作品に共通する「にせもの」をキーワードにしている。
一方レムはこの「講義」の冒頭でもありレムの文学エッセイでも高く評価していたウェルズの後継者としての位置。それは個人の人間ではなく人類という種全体を問題系に入れているところから。
ウェルズとレムの間に入る作家としてステープルドンという名前が挙げられている。この人もあまり「SF作家」としての言及がないというが。
(2016 01/19)

いいなと思ったら応援しよう!