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「眩暈」 エリアス・カネッティ

池内紀 訳  法政大学出版局

キーンの図書室

昨日買ってきた本の中にカネッティの「眩暈」があって、昨夜からちびちびやっている。
どうやらこの主人公?キーン氏は家に中国古典思想を中心とした三重の鍵で守られた図書室を持っており、そこでの仕事を中心に孤高の生活を送っている。それがふとしたきっかけで家政婦や同じ建物に住む子供に関係し本を貸してしまうことで生活が崩れ、やがては狂気が訪れ図書室自体を燃やしてしまう。という筋のよう。
(2010 02/10)

盲目の信頼

 連綿と持続する時間から逃れるためには盲目あるのみだ。時間を見ないことにより、それは断片化しよう。断片を手に、かくして時間の実体を知ろう。
(p66)

キーン氏が「断片化」することによって狂気を得る。そういう物語の最初の「断片化」。
何故、盲目となったら自殺しようとまで思っていたキーン氏が、逆に盲目に信頼?を置くようになったのか?それは自分の書斎にベッドという家具が置かれたことによる。このベッドを見ないようにと、キーン氏は眼をつむる。ベッドは妻たるテレーゼが導き入れた。
ならば、というか最初から自分には「何故、キーン氏はテレーゼと結婚などしたのであろうか?」と不思議である。ここから「狂気」が忍び込んできたとするならば、何故キーン氏が結婚したのか、というところから重点的に掘り起こさなくてはならないだろう。それがこの小説読解の鍵となるだろう。
(2010 02/23)

家具と群衆

 要するにだらしなく酩酊した連中だ。どれがだれやらさえ分っていない。答をひとつくれてやったら、ハッと正気に戻るであろう。そして互いに爪先立って、ラッカー塗りの頭を掻きむしり合うであろう。
(p86)


ユーモラスな表現であるが、ここでキーン氏に「連中」と呼ばれているのは、テレーゼが持ち込んだベッドなどの家具のこと。家具そして生活がキーン氏の「研究」と相対しているのであれば、キーン氏は「答」を本当に与えることができるのか?
こういう「自分の本当の位置や存在をわかっていない」という発想はプラトンの「洞窟の比喩」以来であるけれども、どうだろう? 「答」を与えられたり、洞窟から出てみたりした場合、大衆の一人たる人間は「頭を掻きむし」るだけですむのであろうか?

家具=生活=大衆、という図式が「眩暈」における大衆の捉え方だとすると、ベールイ「ペテルブルグ」での大衆の捉え方の図式は霧=島=大衆になる・・・のか? (2010 03/11)

「みみぶた」考


久しぶりに「眩暈」に戻ってみよう。

 口なら意のまま気のままに閉じることができる。それはいかなる用を果たしているか? こんなにも厳重に守護されていながら、単なる咀嚼のためにある。耳は無限の雑音にさらされているというのに!
(p108)


…キーン氏は「耳にまぶたが生えた夢」から醒めたところ。「耳にまぶた」=みみぶた? そうそう、確かにありませんね(笑)。
自分などは「みみぶた」が欲しい時がよくあります。最近(でもないか)どこでもやたらめったらに音楽かかってたり、店を活気づけようとしてなのかなんなのか(ノルマなのか)絶叫のようなかけ声出したり、また不必要にいろいろ語りかけてくるひととか、まあ他にもいろいろ。キーン氏はまだ知り合いの言葉を遮りたいだけだからよい方である。

っと、それは置いといて、なんで「みみぶた」がないか? 自分なりに考えてみると、寝ているときでも起きて何か作業しているときでも、周りから危険が近づいてきているのをすばやく察知して対処できるように、ではないだろうか。うむ。「みみぶた」のようにふたがないのは、他には鼻か。鼻もそうだろう・・・違うよ、呼吸できないよ、ふたしてたら(笑)
以上で「みみぶた」考、を終わる…

「口」のことに触れなかった。「口は咀嚼のためにある」としか書いてない(意識的に?)ということは、キーン氏が他の人とのコミュニケーションを有害視していたことが(とはいかないかもしれないが、少なくとも見過ごすくらい過小評価していたことが)よくわかる。
(2010 03/29)

「世界なき頭脳」

今日第一部「世界なき頭脳」を読み終える。

 現在を疾走せしめよ。過ぎ果てたとき、すなわちそのとき、現在はもはや無にひとしい。ああ、現在を一挙に追いやることができたら! われわれはあまりにも未来に生きようとはしない。世界の不幸はけだしここに起因する。
(p159)


どうしてなのかはよくわからないけれど、殴られたり、食事を与えられなかったりしたのち、結局家を追い出されてしまうキーン氏。未来に生きるとは過去を積み上げ活かすことだ。それなのに世界の人は皆「現在」のみ生きようとする。というキーン氏の主張はまあ正しいと思う。だけど、違うのは「過ぎ果てた」としても「現在」はまた「現在」であることだ。生きることは現在にしかできない。
「世界」=「現在」とするなら、「世界なき頭脳」とはキーン氏そのものか? 一方「現在」のみ生き、過去を未来を考えなかった人達はどうなったか?これまでの戦争の歴史が物語っているような気がする。
でも、20世紀のドン・キホーテだよね、笑える。
(2010 04/01)

フィッシェルレ氏登場

第一部「世界なき頭脳」で、このキーン氏というのはなんだかドン・キホーテだな、と思い、第二部「頭脳なき世界」に入る。

20世紀のドン・キホーテ、キーン氏はサンチョ・パンサばりの従者を手に入れる。フィッシェルレ氏である。キーン氏と同等になんだかわからないけれどチェスの世界チャンピオンと自身を空想していて、そしてアメリカ渡りたいためにその金を工面しようとしてキーン氏にお供する。つまり20世紀のサンチョ・パンサ、フィッシェルレ氏はもうただ従うだけの従者ではなく、キーン氏の金を狙う魂胆を持っている。
一方、ドン・キホーテのキーン氏も、セルバンテスの主人公のように「狂気に捕われていない時は清廉で人間味のある人物」とはいかない。思えば両者とも「書物を読み過ぎた」というところは同じなのであるが、こっちは狂気が(彼の)現実化している。

20世紀になるに従い、フィッシェルレ氏、キーン氏とも接点をますます離れてどっちもどっちで別方向に勝手にやってる、という感じ。近代社会がどんどん分化していった結果であろう。でも、その「勝手にやってる」がドン・キホーテと同じくドタバタになってしまうから、読んでいる方としてはなんだかわからない両人の空想の嵐に吹き飛びそうになりつつ、よくみたらコメディじゃないか、と思うのであった。
(2010 04/08)

交差しないコミュニケーション

この二人にテレーゼと警官あがりの門番が加わり、どたばた度はエスカレート。お互いが自分の理論の中でもがいていて、相手との接点がない。おまけに群集や警官達もやってきて、噂が空回り。逃げ出すことに成功したのはフィッシェルレ氏だけ。
そういえば、この小説、「群集」の小説だと書いてあったけど、今回初めて群集を目の前にした。
読み始めはこんなに「どたばた」の小説だとは思わなかったのに・・・
(2010 04/14)

なんかだんだんドノソ「夜のみだらな鳥」に似てきた感もある。みんな無茶苦茶でコミュニケーションが交差しないんだわ(笑)。
まあ、今の世の中も果たして交差しているのか?という問題もありますがね…

第二部最終章はフィッシェルレ氏の逃亡と最期

 そのうちにも百貨店は崩壊し、九十人の売子を瓦礫の下に埋めた。・・・(中略)・・・瓦礫をとり除く際、百貨店の地下蔵でボタンを詰めた巨大な荷が数個、発見された。
(p353)


フィッシェルレ氏の「会社」の解散宣言での「社員」の反応。百貨店云々は「盲人」の妄想だが、その瓦礫の中に彼が毛嫌いする(盲人だからわかるまいと思ってコインの代わりに入れる)ボタンが出てくるところが面白い・・・ってかオブセッション・・・「夜のみだらな鳥」に似てきたな。ひょっとしたら、カール・クラウスも、ブロッホも、ムージルもみんなこんな感じなのか?・・・だとしたら・・・大変だ!
そういえば、フィッシェルレ氏のアメリカ行きってのも、マンの「フェリークス・・・」と雰囲気を共有している気もするし。
(2010 04/25)

 学問とは見すごしの芸術である。
(p417)


そんな定義始めて聞きました。キーンさん(笑)。
(2010 04/30)

「癲癇院」

今日は「癲癇院」の章を読む。ここの主役はキーン氏の弟、ジョルジュ・キーン。癲癇院の若き院長。

 最良の小説とは、登場人物が過不足なく適切に語り合うところであった。
(p429)


いつも自分は小説の構造や語り口などそのものを言い表しているような文章を取り上げては悦に入る?のであるけど、ここのは「反」言い表し、だ。この小説の登場人物は過不足ばっかり(笑)。カネッティの先行作品に対する皮肉も混じっているのか?

 事物の面貌は、野性的で、緊張し、切迫した生活をいとなんでいるゴリラにとって変化してやまないものであった。
(p434)


ここでいう「ゴリラ」ってのは狂人である家庭の部屋に閉じ込められている男のことなんだけど・・・(ここの場面はジョルジュ・キーンがまだ癲癇院の院長になる前の話)。
ここの部分の論を読んで、実はまだ未読の「個人と社会」(ホセ・オルテガ・イ・ガセット著)を思い出した。オルテガは、この「事物に巻き込まれている」動物に対し、人間は「事物についての解釈・行動を心の内で保留することができる」なんて、書いていたのではなかったか? んで、この「ゴリラ」さん?は、そうした人間特有の「保留」を捨ててしまったらしい。結果、同じ事物に毎回違う言葉?がつく(同じ物という認識が産まれない)らしい。あくまで、らしい。

「眩暈」の群衆論

 教養は強固な壁として立ちはだかり、個人と、おのれの内の群集とを隔絶する。
(p443)

 いつの日か、その群集は散乱をやめる、おそらくある国においてだ、そこから野に広がる火のように蔓延し、ついにはだれ一人としてその存在を否めなくなるのであろう。そのときにはわれもなれもかれもなく、ただそれが、けだし群集があるばかりなのだから。
(p443−444)


ついに出てきた、「群集論」。カネッティの主著である「群集と権力」、まだ読んでないけれど、読む機会あったらここの文章や、さっき名前でてきたオルテガとかとも比較してみようか。
(注:まだどちらも未読。「大衆の反逆」はずいぶん前に読んだのだけど)

ここの文章は言ってみれば「理性人が群集になりつつある時」というような、半ば群集の内側から見た群集論。カネッティの群集の概念が、自分にはまだ全然わかっていない(だからそれは「群集と権力」を・・・)のだけれど。というより、群集というのは定義する何ものかより熱なのかも。実体のない・・・
(2010 05/05)

図書室は燃えたのか

今朝「眩暈」を読み終える。最後はキーン氏が自分の図書室に火をつけるのだが、これが幻想なのか現実なのかこの章の最初っから最後までよくわからない・・・

 視点をあまりに対象に近づけるとき、なべて親しいものが突然の拡大により、がらり奇異なものと一変することわりだ。
(p510)


例えば、絨毯の赤い線にあまりに近づいたせいで血に見えてしまい、証拠を消そうと火をつけたりするシーンなど。
この小説の最後の三分の一くらいは、あまりの幻想の進み具合に読者の方が置いて行かれる感じを受けたけど、過ぎてしまえば夢のよう?夢は、いい夢と悪夢があるからなあ・・・こっちは悪夢、明らかに。一番悪夢だったのは現実の歴史だったけどね。
(2010 05/16)

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