「澱み ヘルタ・ミュラー短編集」 ヘルタ・ミュラー
山本浩司 訳 三修社
ミュラーの大阪弁
ミュラーの「澱み」を少しだけ読んでみた。彼女自身の自伝的要素も多く含む。とにかく書いた作品が西側(ドイツ)で評価されたから生き延びることができ、その為に書くしかなかったというのが壮絶。
この作品を検索しレビューを見てみると、内容はともかく、訳者(山本氏は大阪府出身)がおそらく意識的に使っている大阪弁が評判落としている…自分的には、暗い内容をほの明るくする効果と地域の閉鎖性(特に老人連中の)を出す効果で好ましいと思うのだけど…
今は標題作「澱み」に入ったのだけれど、他の作品が掌編と言ってもいいくらいなものが多い中で、この「澱み」だけが中編と言ってもいいくらいなアンバランス。これもなんかこの作品世界の奇妙さを伝えているようで…
(2016 11/01)
袋ものの感覚
ヘルタ・ミュラー短編集「澱み」から。 まずは冒頭の「弔辞」。
父の葬式の夢を見ている語り手。写真というメディアのある種の硬直性に、父の過去の暗い何かが加わって、寒い情景に厚みが出てくる。 この文の後に、服やガラス瓶の中に閉じ込められるという表現が出てくる。この袋状のものに閉じ込められるというのは、ミュラーの頻出テーマらしい。今は取りかかりだした「澱み」の中から具体例を。
この他の頻出テーマはガラス状のものを踏むイメージ、村が何かの裏側に入り込むイメージなど。
それはパラレルワールドの入口なのか。これらの頻出テーマの中には、ルーマニアの秘密警察のイメージが重なっていないか。
(2016 11/02)
ミュラーのカエル
「澱み」(本全体ではなく標題作のみ)を午前中読んだ。
ルーマニアのシュワーベン人というドイツ系少数民族の農村が不条理にまた身近に感じられ、作者ミュラーの自伝的要素もあるそういう叙情詩的作品。教会での日曜ミサ(「化粧をするな」という説教に「ではなんでそこの聖母マリアの唇は紅く塗られているの」と聞いたら定規ビンタくわらせられたという)や、子供を昼寝させる話(祖母の時代には罌粟やらなんやらで半ば強制的に眠らせていたり)、理不尽なしかりかたで子供に接するけど、夫にはナイフで脅され、掃除を各種箒で丁寧にする母の姿など。ところどころに公にできない何かへの告発らしきものも感じられるが、最後はそれが一番よく現れる。
カエルとは何らかのコンプレックス或いはその裏返し。
(2016 11/03)
廃村、そして箒
「澱み」は掌編を読み進め、作品数でいえば後半の村外部分に突入し、「五月…」まで。短編が緩やかに繋がっていく構成はここにもある。印象的なのは(確か)床屋に父親を探しに行く話で、変なよくわからない表現が出てくるなと思っていたら、最後でその村は列車が通過する廃駅として現れる。全ては幻想だったらしい。
(2016 11/05)
私は自分の後を追って歩く。水から緑があふれ出るように、私は自分自身からはみ出していく。
(p195)
「道路清掃の男たち」から。いろんなものや人、そして自分自身までが、そのものの役割や領域を逸脱(も少しいい言葉ないかな…越境?)していく。ここでも「澱み」に倣って箒が活躍している。
墓穴に棺に水槽
というわけで、今日は「澱み」を読み終えた。
ミュラーのメタファ大集合…みたいな(笑) 短い文が歪んで重ねられ、直喩は少なく、断定や擬人法が重用される文体。 そして沈澱しているのは、澱んでいるのは、風景を通過してきた心の中なんだろうな。
(2016 11/06)