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「庭で」

私のお母さんの歳の離れた妹、絵麻ちゃんは絵を描く人だった。

独学だけれど油絵が上手だった。市の美術展に作品を出して賞を貰ったり、絵に買い手が付いたりしたこともあったみたい。写真みたいな風景の中に、必ず女性が一人か二人描かれている、それが絵麻ちゃんの絵だった。女性は必ず後ろ姿で、顔は見えないけれど遠くを見遣っている雰囲気は伝わる。私はその背中と風景を何度も見比べて懸命に想像した。絵麻ちゃんはどんな思いでこれを描いたのかな? って。

絵麻ちゃんは私のおばちゃん。でも年齢はお姉ちゃんって感じで、私はおばあちゃんの家に行って絵麻ちゃんと会うのを楽しみにしていた。
絵麻ちゃんはまわりのどんな大人とも違う、難しい人。神経質で不器用で、わたしやお母さんがいる前でもおばあちゃんと喧嘩をしていた。絵麻ちゃんが仕事をすぐ辞めること、ご近所さんに挨拶をしないこと、家に籠って絵ばかり描いていること……口論の種は沢山あった。
「おばあちゃんは絵麻をお嬢様みたいに育てたかったけど、あの子はそういう子じゃないから」
とお母さんは言っていた。

絵麻ちゃんは大人なのに、依怙地な中学生みたいなところがあって周りから浮きがち。それで苦労していたのだと思う。
けれど、私のことは可愛がってくれたと思う。会いに行くたびに「仕方がないな」って部屋のドアを開けてくれたから。それは私が子どもだったからかもしれない。絵麻ちゃんは中身が中学生だったから、大人よりも子どもといるのが楽だったのよ。

思い出すの。絵麻ちゃんの部屋はトンネルそのもの。6畳の部屋はびっしりとモノで埋まり――絵具、パレット、筆、バケツ、洗浄剤、拭き布……絵麻ちゃんが描いた絵、色々な本、画集、写真集、雑誌……埃がついたままの音楽プレーヤー、CD……他にも色々――その中に万年床のベッド、脱ぎ散らかした服、食べかけの干からびたお菓子が沈んでいた。絵具の匂いと生活の気配が混ざる、絵を傷めたくないって理由でカーテンを閉めるからいつも薄暗い、絵麻ちゃんの部屋アトリエ

それを抜けた先にはいつも、絵麻ちゃんが描いている途中の絵があった。精密に描き込まれた風景は寂しげで、後ろ姿の女性は、「これは絵麻ちゃん」ってわかったり、別の人だったり。絵麻ちゃん一人だけだったり、そうでなかったり……多分そこには絵麻ちゃんの心の秘密が描かれていた。私は子どもだったけれど、それぐらいすぐに気付いた。ううん、絵麻ちゃんの絵には、それに気付かせる力があった。子どもにもわからせる力があった。

絵麻ちゃんは、じっと絵に見入っている私に、よくいたずらをした。それはきっと、絵から自分の心を読まれるのが恥ずかしかったから。
「絵具は毒物だから触らないほうがいい。昔の画家には絵具のせいでおかしくなった奴もいる」
絵麻ちゃんはそう言いながら自分の指に絵具を絞り出して「ほぉら!」と私の顔に近づけ「きゃあ!」と私が悲鳴を上げるのを見てゲラゲラと笑ったり。本当に子どもみたい。でもそういうところ。私が好きだったのは絵麻ちゃんのそういうところ。

絵麻ちゃんが突然いなくなったのは私が高校に入った年。受験でおばあちゃんの家から足が遠のいた時期のこと。病気か事故かその両方で、と聞いた。悲しかったけれど驚かなった。その前の年あたりから絵麻ちゃんは、私をからかって笑っている時も泣きそうな顔だったから。わたしは絵麻ちゃんに元気になってほしかった。でも絵麻ちゃんの運命に割り込む力が私にはなくて。

それからしばらく経っておばあちゃんの家を訪ねた時、「実はね」と一つの絵を見せられた。
「これは絵麻が最後に描いた絵。絵の中の人に雰囲気が似た方がお線香を上げに来てくれたから、引き取ってもらえないかと頼んだのだけれど。絵を見せた途端に顔色が変わって『無理です』って断られたのよ。『絵麻さんとはそんなに仲が良かったわけじゃないんです』って」
考えが足らず、悪いことをしたわ。とおばあちゃんはため息をついた。

その絵の題名は「庭で」。

描かれていたのは赤や黄、オレンジのカンナが群れ咲く庭。花弁の一枚一枚が燃えて輝き、絵麻ちゃんのいつもの絵にある寂しさは感じられない。座って庭を見やっている女性が二人いる。後ろ姿のむき出しの身体。片方が絵麻ちゃんだとすぐわかる。もう一人の女性ともたれ合い、肩に頭を乗せ、触れた手を重ね、髪と髪が、指が指に絡む様子の親密さ。それは今までの絵麻ちゃんの絵にはなかったもの。ひらめくように理解した。この絵はラブレターだと。見た人の目を眩ませるほどのまぶしさが受け取りを拒ませた――そうであって欲しい……。
私はおばあちゃんに頼んだ。「これ、わたしにちょうだい」

この絵を見るたび思いだすの。あれから倍の年齢になって、絵麻ちゃんの歳を追い越した今でも。絵麻ちゃんのあの部屋トンネル。それを抜けた先にあった世界のこと。絵麻ちゃんの最後の心の秘密。

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