ルサールカ
ここは本当に嫌になるような田舎でございましょう?(とその老婦人は言った)
わたくしもここが嫌で嫌で。嫁いできたものの、ここで生きてゆける気がしなくて。とうとうある日、わたくしと、その時お腹にいた子とで街へと降り、二人で生きていこうと心を決めました。大変な覚悟でございました。
それなのに、ほどなくして出てきてしまったのです。その子、わたくしのお腹の中に来たばかりの子は。
お産は大変痛うございました。片手に載るような大きさの子であっても、産むときは痛うございます。そしてその子は当然生きておりません。
わたくしは胎嚢に入ったままのその子を布に包み、胸に抱いて集落をさまよいました。月の明るい夜でございました。
この子をあの家の土地に埋めたくなかったのでございます。いいえ、あの家だけではなく、この集落のどこにもこの子を埋めたくはない。この子と一緒にわたくしも死んでいればと泣きました。
その時でございます。途方に暮れるわたくしの耳にかすかな歌声が届いたのは。
不思議な声でございました。水で満たしたうつわを鳴らすような、深い震えと響きを含んでおりました。歌は用水を伝って流れてまいります。わたくしはそれに呼ばれるように水の流れを辿り、集落のはずれにある湖にやってまいりました。
ほら、遠くに見えてまいりましたでしょう。あの湖でございますよ。
湖の上にはその女がおりました。その女は月を映す水面のさざなみから浮かび立ち上がり、滴るほど濡れた瞳でわたくしを見つめました。
その女は言いました。不思議に響く声で語り始めました。
その女がずっとわたくしを見ていたことを。実家のないわたくしがあの家で、この集落でどのような仕打ちを受けてきたか。そのくやしさ。そして、生きて生まれなかった子のこと。全てを見て、知っていると。
どのようにして見たのかと問いましたら、その女はこう答えました。
「ここから水で繋がる場所ならばいかようにも」
そして泣いてくれました。わたくしと一緒に。わたくしのために、小さなこの子のために。わたくしの気が済むまで。
それからこう申し出てくれたのでございます。
「この子はあたしがあずかろう。おまえは決めておいたとおりここを離れるといい。おまえを知る人間がここからいなくなったら戻っておいで」
数日後わたくしは家を抜けだし街に降りました。
あの夜、その女は私から胎嚢を受取りますと、その周りにまだ留まっていたその子の魂を優しく抱き上げて、その女が住まうかくりよに、その女の膝の上に置いてくれました。それを見て、心配することが何もなくなったからでございます。
わたくしは懸命に働きました。目標がございましたから。わたくしを虐げたひとたちが、一人残らずあの集落からいなくなる日まで生き延びるという目標が。その日が来たらわたくしはあの子とあの女の元に帰るのです。それだけが望みでございました。
興した商売が運よく大きくなりまして、付き合いも広うなりましたので、何人もの殿方から好意を持たれたこともございました。けれどそれらは全て避けてまいりました。
だって聞こえるのですよ。雨の日には。雨粒の一つ一つから、かすかに。
――ねえ、”水のかあさま”。”街のかあさま”はいまどうしてらっしゃるのかしら?――
――元気にしているから安心していらっしゃい――
あの女は自らのことを”水のかあさま”、わたくしのことを”街のかあさま”と呼ぶよう、あの子に教えていたのですね。おしゃべりのあとで、二人は声を合わせて雨の日の歌を歌うのです。わたくしに届くように歌うのです。
それを聞けば思い出すからでございます。わたくしがこうして生きているのは、何のためなのかを。
さて、わたくしはここで降りますよ。すっかり老いてしまいましたが、この停留所からあの湖まで行く力はございます。何年も待って待って、ようやく戻ってこられる日が来たのですから行きますとも。
さきほどからもうずっと、バスが川や用水の近くを渡るたびに、わたくしには聞こえているのですよ。「おかえり、おかえり」と。二人が招いているのです。それで辿り着けないわけがない。
それではごきげんよう。お話を聞いて下さってありがとう。
わたくしはようやく帰るのです。商いは信頼する方に譲りました。
わたくしは寂れ果てた集落の跡地を抜け、あの晩のように水の流れを辿ります。足早に。
わたくしを呼ぶ声はますますはっきりとしてまいります。
――おかえりなさい。かあさま、街のかあさま――
わたくしのあの子の。笑みを含んだ可愛らしい声。そしてあの懐かしい歌声。深い震えと響き。あのとき、わたくしを受け入れてくれたただ一人のひとの。
わたくしはもつれた足に力を込め、傾いた身体を立て直し、残る力の全てで駆け出すのです。
湖へ。
ずっと帰りたかった。わたくしの大切なものすべてを置いてきた場所。
わたくしを抱きとめる優しい手。あたたかなさざなみ。
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