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甘くてしょっぱい、ただそれだけの

肉じゃがを作る時は「出汁で煮なくてもいい」と僕の母は言った。「肉からうまみが出るからね、動物性のうまみが、それで充分」と。そして「お父さんは出汁を使えって昔言ってたけれどね、必要ないない、有名な料理家も『必要ない』って言っているよ」と笑ったことも覚えている。

僕が小六の夏休みのことだ。入院していた母が自宅に戻ってきた。母は僕が小四の時に病気が見つかって、手術をしたり、髪の毛が全部抜けるほど強い薬を使ったり、大変な思いをして治した。そのはずだった。でも僕が小六になるちょっと前に、ぶり返したことがわかった。状況は良くなかった。すぐに入院が決まって、また大変な治療。病院と家とを行ったり来たり。みるみるうちに病院で過ごす時間が長くなっていった。

母は入院を嫌がった。少しでも体調が良くなれば、家に戻れるようお医者さんに相談していた。家に戻っても前のように家事ができるわけじゃないけれど、せめて学校に行って帰ってくる僕に「行ってらっしゃい」と「おかえりなさい」を言いたいと。そして「夏休みは子どもと一緒にいたい」、「宿題をやるよう声を掛けたり、学校のプールに送り出したりしたい」と。

母は夏休みの最初の日に帰宅した。僕と父とで迎えに行った。父はリクライニングベッドをレンタルしてリビングに置き、そこで母がいつでも休めるようにした。

静かな夏だった。何もない、ただ母がいるだけの夏。母はとても痩せて、髪もまつ毛も抜け、皮膚は暗い色になっていた。かつての夏に、町会のお祭りでヨーヨーを売っていた元気な母にはもう戻らないことを知った。けれど母は母だった。どんなに様子が変わっても、そこにいたのは母だった。その夏、僕たち家族は遠出をせず、ずっと家にいた。一度、母の調子がいい日に浦安のテーマパークに行こうか? という話が父から出たけれど、実現はしなかった。でもそれでよかった。

ある日の夕方、母が僕を呼んだ。「今、台所にじゃがいも、玉ねぎ、にんじん……豚肉はある?」……夏休みの終わりが近づき、ヒグラシが鳴き始めたころだった。僕は冷蔵庫と根菜ストッカーの中を確かめた。全部あった。母は言った「肉じゃがを作ってみない? 作り方を教えてあげる」と。

僕は野菜を洗い、皮を剝いて、一口に切った。母はダイニングチェアに腰掛けて、ひとつひとつやることを指示してくれた。「出汁で煮なくてもいい」は、僕が“出汁スティック”を鍋に入れようとしたときに言われたことだ。

けれど、「出汁スティックはいいから、水を1カップ半くらいと、酒、みりん、しょうゆを大匙2ずつ鍋に入れて、その中に肉を……ぅう痛っ!」。ずっと調子良さそうしていた母が、急に呻くように叫んで、崩れるようにダイニングテーブルに突っ伏してしまった。僕は煮始めようとしていた肉じゃがを放りだして母に駆け寄った。

「大丈夫。たまにこうなっちゃうの。でもすぐに落ち着くから」と、母は息を整えながら僕に言った。けれど大丈夫と口では言っても目は涙で濡れていた。僕の目の前で、母にこんなにひどい痛みが出たのはこの時が初めてだった。僕は怖くなった。料理どころではなくなって母を休ませた。ベッドに横になった母は呟いた。「大丈夫よ、大丈夫。まだまだ……。来年の小学校の卒業式と、中学の入学式には出るわ……」と。

夏休みが終わって数日後、母はまた入院した。そして「家に戻りたくても戻れない」「戻ってきても、ほんの短い間」という時期がやってきた。それは長い、けれどあっという間に過ぎてしまう時間……。「冬休みはまた家で過ごす。卒業式と入学式にも出るわ……。中学の説明会には忘れずに行って、制服を注文して……」母は僕と会うたびにそう話した。けれどどんどん弱って、病院から出られなくなった。痛み止めを使って眠るようになった。そして、その年の暮れに亡くなった。

母がいなくなって、それでも僕は小学校を卒業し、中学に入学し、部活をやり、定期試験を受け……必死で毎日を過ごした。できるだけ「普通の家の子」のように。そうしているうちにまた夏休みが来た。少し時間ができたので、僕はあの日、最後まで作れなかった肉じゃがのレシピを探した。覚えている作り方と似たものがネットで見つかったので、その通りに作ってみた。

“じゃがいも、玉ねぎ、にんじん、豚肉の小間切れを用意する。野菜の皮を剝いて一口に切る。1カップ半の水に酒、みりん、しょうゆを大匙2ずつ入れる。その中に肉を……、肉をほぐしながら入れ、野菜も入れる。それから火にかける――”

出汁を使わず、肉と野菜を炒めず、冷たい汁から煮込むだけの手軽なレシピから出来上がったのは、母が作っていたのと同じ肉じゃがだった。「ちょっと調子が悪くてもこれならできるよ」と作っていた、みりんとしょうゆの甘じょっぱい、ただそれだけの、けれど充分な味。

僕はそれを忘れない。忘れるわけがない。

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